いとをこなる「本質」論と「物のあはれ」論

 井筒俊彦「意識と本質Ⅱ」(岩波文庫『意識と本質』)に読み進める。「本質」をめぐる議論を展開している。まずは、事物、事象の普遍的「本質」を追求する「朱子を代表とする宋儒の理学」—中国的思考に関しては、「すべて万の事、漢を主として、よさあしさを定むる、世のならひこそいとをこなれ」(『古事記伝』)として退け「徹底した即物的思考法」を説いた本居宣長の「物のあはれ」論をとり上げている。(※「をこなれ」は、ナリ活用の形容動詞「をこなり」の已然形。「間が抜けている。ばかげている」の意味。『学研古語辞典』)
……概念的一般者を媒介として、「本質」的に物を認識することは、その物をその場で殺してしまう。概念的「本質」の世界は死の世界。みずみずしく生きて躍動する生命はそこにはない。だが現実に、われわれの前にある事物は、一つ一つが生々と自分の実在性を主張しているのだ。この生きた事物を、生きるがままに捉えるには、自然で素朴な実存的感動を通じて「深く心に感」じるほかに道はない。そういうことのできる人を宣長は「心ある人」と呼ぶ。……(同書pp.35~36)
「物の心をしるは、すなはち物の哀をしる也」であり、それは、花であれ月であれ「あらゆる存在者を、普遍的、つまり概念的、認識の次元に移さないで」、「前客体的個体」(メルロー・ポンティ)として、その「心」を外側からではなく内側から直観的に捉えることなのである。しかし「花の心をしる」ということは、すでに花を花と認知していることがあってのことであり、つまり意味分節作用を通じて普遍化する操作が行われていることになる。「事物の非普遍化的認識論」としては宣長の「物のあはれ」論には、「どこか徹底しきっていないところがあるのだ」。
 しかし「本質」について、西洋哲学での「一番普通の意味」の「概念的普遍者」と考えず、「人が原初的存在邂逅において見出すままの事物の、濃密な個体的実在性の結晶点」としての「本質」の意味も成立し得るのである。二つの正反対の意味の「本質」があるということなのである。「一方はものの個的リアリティー、他方はものの普遍的規定性」である。
 イスラーム哲学においては、あらゆる存在者に二つの「本質」を認め、区別するのは「初歩的常識」であるとのことである。その区別とは、「マーヒーヤ」と「フウィーヤ」との区別である。
……フウィーヤとマーヒーヤ、この二つをイスラームの哲学者たちが二つながらに事物の「本質」と考えていることは、彼らが後者を「特殊的意味での本質(マーヒーヤ)」と呼び、前者を「一般的意味での本質(マーヒーヤ)」と呼んで術語的に区別しながら、それらを共に広義のマーヒーヤに含まれるものとしている事実によっても明らかである。……(同書p.41)
「特殊的意味での本質(マーヒーヤ)」とは、「完全に抽象化して概念的一般者」のことであり、その実在性は少なくとも「第一次的には問題にならない」。対立する「一般的意味での本質(マーヒーヤ)」とは、「徹底的に個的な実在性」であり、具体的な物の「即物的リアリティー」である。原語「フウィーヤ」は「これであること」いわば「これ性」を意味するから、言語的形態としては、西洋中世哲学者ドゥンス・スコトゥスが現実的存在者の究極的実在性とした「これ性」に対応している。しからばこの二つの「本質」は、現実的存在者においてどう結びつくのであろうか。本日はここまで。(ワインを呑むことにする。)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20130106/1357462138(「八木雄二『神を哲学した中世』新潮選書」)