「西行忌」に


 吉本隆明の「西行小論」と「「西行論断片」の二つの論考が、『吉本隆明全著作集7』(勁草書房)に収録されている。「西行小論」では、西行を貴族社会から武家社会への過渡期の時代の苦悩を一身に集中して「受感」した、思想詩人として捉えている。西行の、子供を詠んだ「たはぶれ」歌は、紀貫之の9歳の娘がつくった「鶯よ などさは鳴くぞ 乳やほしき 小鍋やほしき 母や恋しき」などの「単純な自然発生的なしらべ」とはまったく異質で、西行の「苦渋をなめつくしたような論理的な詩のなかにある純粋さ」とはつながらない。また西行が「たはぶれ」歌の対極的規範とした、藤原頼実の「木の葉ちる宿はききわくことぞなき時雨する夜も時雨せぬ夜も」など、幽玄の理論に武装された専門詩人の作品とも、西行の詩は断絶があった。この対極にありながらも断絶はない二つの作品を「規範としてあげたとき」、西行は「こころのなかは孤独だったであろう」としている。
 いくさの歌の一つ「死出の山こゆる絶間はあらじかし亡くなる人の数つづきつつ」を紹介して、論考を結んでいる。
……かれは、この動乱が、封建社会成立にいたる過渡期の動乱であることを洞察したわけではない。こは何事の争ひぞや、あはれなることの様かな、というのは西行の本心であったろう。もちろん、なぜ、武者がおこらなばならなかったのかを知っていたわけではない。だが、青年期に、すでに貴族社会の家人として、そのあさましい政権争いと売官生活とをみていたにちがいない西行が、出家というかたちで、かれらからはなれ、動乱からもはなれたとき、もはや自分の生涯をどこへむかって走らせるかの目的を失ったといえる。そして、かれの詩は、思想詩人の宿命によって、過渡期の現実的な悩みを反映せずにはいなかったのである。……(同書p.29)
西行論断片」では、西行の歌はどんなさり気ない叙景歌でも、「生活者のうたであったことはたしかだ」とし、吉本自身の好きな一首「いはれ野の萩がたえまのひまひまに このてがしはの花咲にけり」をとり上げて、
……雄大な風景も、枯れはてた自然も、物珍しい旧跡も、名勝も、もう西行をべつに驚かさなくなるほど、旅の経験もつんだ。凡百の風景、どんなつまらぬ路にもある風景、こころはそういうものにだけ眼をとめる。そして、そういうものにしか眼をとめなくなったじぶんのこころを、ふとつかみあげてみる。これが一首の意味であるとおもえる。このとき西行のこころには懐疑も感傷もなく、ちょうどいわれ野をとおりすぎたときの足の速さとおなじ速さで歌は投げだされている。……(同書p.31)
 http://www.syououji.jp/konote.html(「コノテガシワ」)
 http://www.geocities.jp/ir5o_kjmt/kigi/konote.htm(コノテガシワ=児の手柏」)
 http://1000ya.isis.ne.jp/0753.html(「松岡正剛の千夜千冊『山家集』」) 

西行論 (講談社文芸文庫)

西行論 (講談社文芸文庫)