年末年始の読書


 個人的購買力を欠いているので、こちらは本の買いものは慎重である。新刊の本について辛辣な書評・感想を書いているブログもあるようだが、はじめから購入しなければよいのではと思ってしまう。読まなくとも、みずからが信頼できる人のブックレビューもしくは店頭での立ち読みで、だいたい見当がつくのではあるまいか。むろん素人には与り知らぬことで、研究者には研究者としての立場というものがあるのだろうが。
 さて年末から読んでいるのが、写真右の、『神を哲学した中世』(八木雄二:新潮選書)。正月Amazonから届いたのが、写真左の『戦前の日本人が見抜いた中国の本質』(西尾幹二徳間書店)。ヨーロッパと中国を理解するために役立ちそうな書物だと見当をつけた次第。
『神を哲学した中世』は、中世神学と近代哲学との連続性と非連続性、および中世神学の多様性について学ぶことができる。前者に関しては例えば、
……そのような訳で、日本人が「自由意志」や「ペルソナ」の意味を明瞭に意識できないのは、無理も無いのである。わたしたちには、感覚レベルの「欲求」や「感情」は理解できても、理性の「主観的欲求」や理性の「主観的情動」は、矛盾して聞こえる。しかし、この理性の情や理性の欲求を理解できないと、理性の個別的性格を示している「ペルソナ」や「人格」の意味を把握できない。目に見えない個別の顔の違いは、情の違いとして現れるからである。目に見えない顔(精神上の顔)が客観的で理性的考察しかもたず、情をもたないとしたら、わたしたちには区別のしようがない。(略)十七世紀のデカルトが「我思う、ゆえに我在り」と言ったときの「我」は、情をもつ「理性的自我」である。……(同書p.156) 
 後者に関しては例えば、ドゥンス・スコトゥス(1265頃〜1308)が、まじめな商人の「勤勉=industria→industry=産業」に高い価値を認めたのに対し、トマス・アクィナス(1225頃〜1274)は、「いささか消極的に、商取引でも商人の心がけしだいでそれを栄誉ある仕事にすることができると認めただけである。この違いは存外に大きいのではないだろうか」(同書p.140)。
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の 手前=ハボタン(葉牡丹)、後=アカナンテン(赤南天)、右奥=シャコバサボテン。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆