劇団「重力/Note」の『雲。家。』(イェリネク作)観劇



 先週祝日の11/23(金)は、劇団「重力/Note」のマチネー公演、イェリネク作、鹿島将介(のぶすけ)構成・演出『雲。家。』を観劇した。鹿島さん演出の舞台であるからいつものように、感動的であるよりも衝撃的、面白くはないが退屈はしない、公演であった。
 今回の戯曲作品は、オーストリアノーベル文学賞受賞作家エルフリーデ・イェリネクの『雲。家。(Wolken.Heim.)』(翻訳:林立騎)。予めこの戯曲(同翻訳)を掲載している『舞台芸術15』(角川学芸出版)で読んでいたので、全体の骨格はわかっていて、あとは演出家の料理の仕方に注目して、霧雨の中池袋のシアターグリーンに赴いたのであった。「舞台上のスクリーンには金網越しに聳えるサンシャイン60が映っている」(同誌p.79)シーンもあった高山明演出以来、何度かはこの作品が小劇団で公演されていると、たまたま受付前に出会った鹿島さんが話していた。
 イェリネクの原作は、個々の登場人物に語らせる台詞ではなく、「わたしたちは家にいる」のように、「ドイツ民族」を人称代名詞「Wir」で示し、形式的にはその語りのことばとして展開している。そしてそのことばは、ヘルダーリンの詩を中心に、ヘーゲル、クライスト、フィヒテハイデッガー、シュマイザーらの書物および、『ドイツ赤軍派書簡集』などから文章・ことばの断片が〈引用〉・再構成され散りばめられて成立している。美しく酔わせることばも多い。ドイツ民族における感性の共同性が称揚されてあるかのごとく読めるのである。この作品の評価を決定的にしたらしい、スイス生まれのヨッシ・ヴィーラーの演出では、原作を徹底的に分解・再構成して、「すでに歴史という地中に埋まり、死んだものと思われているとしても、ファシズムは常に回帰しうるのだというメッセージを感じさせる」舞台を創ったそうである(同誌「訳者解題」p.58)。レナーテ・クレットは、「息づき、呼吸し、考える」ヴィーラーの作品のなかで、この場合は「ドイツの記憶の森を掘り起こすように展開してゆく」演出であるとしている(ヨッシ・ヴィーラー演出『四谷怪談』パンフレット)。
 鹿島将介演出のこの舞台では、さらにことばの意味の共有性を破砕し、その「意味の廃墟」の上に身体性としての声の共同性なるものを夢想することも用心深く退けながら、声としてのことばを男女6人の登場人物に語らせている。ヤン・ファーブル風なあるいは、タデウスカントール風な繰り返しのパフォーマンスも挿入され、演劇のpolyphonique(多声的)な表現世界も味わえた。
 最後のことば「わたしたちは眼を見開き、常にわたしたちだけを探し求める。生長し、森となる。」は、とうぜんながらドイツの風土にこそふさわしく、日本の風土に即せば印象的ではない。その「溝に嵌っていくような」演出もしくは受容もあるだろうが、ピンとこないところである。登場人物のひとりに「ふるさと」を歌わせるところがあったが、工夫していて意図がわかる。何度もはじまりを告げるベルが鳴らされるのは、演劇の解体の先に演劇の蘇生を試みようとするこの演出家の狙いであろう。決して面白くはないのに、また観に来ようと期待してしまう、それが鹿島将介主宰「重力/Note」の舞台である。

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の南天の実。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆