大南北作品観劇の記録

東京新聞夕刊「大波小波」3/16 ) 
 歌舞伎の『絵本合法衢(立場の太平次)』は観ていない。たしか現代劇の公演で観劇したような記憶があるが、プログラムが手許に無くわからない。



(1967年3月歌舞伎公演、国立劇場にて。通し狂言『櫻姫東文章』。)



(1979年10月国立劇場小劇場にて、劇団青年座公演、石沢秀二脚本・演出『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』。)




(1981年7月歌舞伎公演、歌舞伎座にて。夜の部、通し狂言『獨道中五十三駅(ひとりたび五十三つぎ)』。』


(1964年11月都市センターホールにて、劇団俳優座公演、小沢栄太郎台本・演出、通し狂言東海道四谷怪談』。)

(2005年8月両国シアターΧ(カイ)にて。ヨッシ・ヴィーラー演出『四谷怪談』。)

 転じて、わたしたちがいま生きる世界はどうか。現在の世界情勢・経済状況のなかで、そう考え始めたとき、「四谷怪談」において最もわたしたちをとらえるのは、特異で強烈な個性と主義主張をもった人間ではなく、また非日常の特別な時間でもない。やはり〈その他〉という世界や時間の有り様であるように思われる。たとえば、敵か味方かで世界を二分しようとする暴力的な状況において、そのどちらにもなれず〈その他〉であるしかない、ヒーローでもアンチヒーローでもない〈その他〉の伊右衛門貞淑な被害者でも祟りをなす悪霊でもない〈その他〉のお岩――。
 いま「四谷怪談」が目を向けさせるのは、大々的に報じられる報復劇の余白でひっそりと起こる惨劇であり、わかりやすい対立の構図の余白にどこまでも広がる、〈その他〉である世界、そこに暮らす人びと個々の具体的な生態だろう。大衆や庶民などということばでは到底くくれない多様な日常があり、そこにもまたじつにさまざまな感情や衝動が渦巻いているはずである。愛情、欲望、嫉妬、裏切り、怨念、そして恐怖さえも。(長島確「〈その他〉である世界――なぜいま『四谷怪談』か」公演パンフレット)