『群系』第37号発刊




 第36号が富士正晴全国同人雑誌賞の大賞を受賞して、(同人ご一同の)気勢が上がっているだろう、批評中心の文藝同人誌『群系』(永野悟氏主宰)第37号が届いた。
 昨年12月逝去された野口存彌(のぶや)氏の著作解題および私小説についての二つの特集と、自由論稿、そして創作が収録されている。『詩的近代の生成ー明治の詩と詩人たちー』を担当している、勝原晴希氏の論稿「明治期の詩歌」⦅野山嘉正編『詩う作家たち』(至文堂・1997年)所収⦆を読んだことがある。
 私小説に関しては、服部達の『われらにとって美は存在するか』(審美社)が読み返して見たくなり、書庫を探すも見つからない。昔どこかの古書店でようやく入手した本であるのに、どこかに埋もれてしまっている。講談社文芸文庫で出ているそうである。

《自由論稿》中の半頁《映画ノート》で、取井一氏が、1962年製作、オーソン・ウェルズ監督の『審判(THE TRIAL)』を紹介している。昔日比谷みゆき座で観ているので、懐かしく読んだ。




 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20100509/1273381808(「薔薇と女優・ロミー・シュナイダー:2010年5/9 」)

 2007年11/28(水)に、松本修演出の『審判』の舞台を観ている。オーソン・ウェルズ監督の映画との対比もあるので、かつてのHP記事を再録しておきたい。
……11月28日(水)は、東京世田谷シアタートラムにて、松本修演出のカフカ原作『審判』を観劇。狭いところに急勾配に座席をびっしりと配置、3時間(途中休憩15分)におよぶ芝居の鑑賞は疲れる。主人公のヨーゼフ・Kの処刑が終わってほっとした観客もいたようであった。わが右隣の客は終始居眠りをしていた。「繰り返しの面白さ(くどさ?)なども、カフカの魅力だ。私の舞台ではそれもできるだけ省略せずに表現してみたい」(パンフレット)との演出方針であるから、物語の1年間が、デティールをきちんととりあげながら進行する。台本の元になっているのは、池内紀(おさむ)氏の翻訳(白水Uブックス)である。同演出の『城』も観て感動したが、こちらも面白かった。

 結末のヨーゼフの処刑は書かれてあっても、作品としては未完の作品である。知られている通りカフカの友人ブロートが作者の死後整理して刊行したもので、その65年後にカフカの手稿にもとづいたものが刊行されたとはいえ、未完成の作品であることに変わりはない。池内氏解説によれば「審判」のder Proze?はprocessでもあるそうで、物語の進行は遅々として進まない作品執筆の過程でもあるそうだ。当然劇の展開の過程そのものを味わうことを強いているわけだ。眠くもなるわけなのだ。

 池内氏翻訳に忠実に舞台化されていることがわかった。弁護士宅の小間使いレニ(ともさと衣)の「ひとつ、小さいけどあるの」とした右手の中指と薬指の「第一関節のところまで皮膜がのびている」のを見せられて、ヨーゼフが「なんと可愛い鉤の爪だ!」という場面が、たしか舞台では「水かきだ!」となっていたり、ヨーゼフが訪ねる画家ティトレリの家に侵入する背中の曲がった少女とその仲間たちは、まるでダイアン・アーバス撮影のフリークスのようであったり、最終章の前の「大聖堂にて」の章で銀行に登場するイタリア人顧客は、相手のイタリア語を理解するのに「唇が見えればいくらか助けになるのだが、髭が邪魔をする」人物のはずだが、舞台では、女性であったり、演出家の創造がある。

 かつてオーソン・ウェルズが監督(みずからも弁護士役で出演)した映画『審判』を観ているが、その時代は、「現代社会の不条理性」の追求といったテーマがことさら強調されていたと記憶する。作家の安部公房はさすがにオーソン・ウェルズが「カフカをリアリストとしてとらえたところ」を評価しているが、その場合でも、「現代世界において、いわゆる〈カフカ的状況〉が普遍的になっている現実」あってのこととしている。池内氏解説でも、情報化時代、または「管理社会」とよばれる時代の到来を、「二つとないほどの似姿で、まざまざと予告したかのようである」としている。しかしさて、いまこの作品で小説であれ、劇であれそのような衝撃を受けるだろうか。

 ともあれ銀行内部の描写ではピナ・バウシュPina Bausch)風の上半身の動きがあり、〈法廷〉場面では、カフカと同じユダヤ人演劇人タデウシュ・カントールを思わせるような人形の配置など、決して文学の僕にとどまらない演劇としての自立した魅力は十分な舞台であった。

 一人の役者が、ヨーゼフ・K(じっさいはK.=Kafka)を演じた笠木誠以外は何役も演じ分けるが、これは『十二夜』『ベニスの商人』など来日公演で観劇した「LONDON SHAKESPEARE GROUP」などではお馴染みで、戸惑いはなかった。この芝居では経費節約というよりはむしろ、現代人はひょっとすると置き換え可能の存在というメッセージともとれる演出だろう。

 映画ではロミー・シュナイダーが演じた小間使いレミを、ともさと衣が演じていた。原作では、「小柄な娘」となっていて背の高いともさと衣は、その点ミスになりかねないが、笠木誠が大きいのでバランスはとれている。くぐもったような声も悪くない。神秘的というよりも不可解さ漂うこの女性の味がよく出ていた。ともさと衣さんは、この11月28日がちょうど三十路の誕生日だそうで、ヨーゼフ・Kの30歳の誕生日で始まり、31歳の誕生日の前日に処刑されるこの物語の、舞台裏の主役としてふさわしい。アントワーヌ・コーベ(フランス)、ヨッシ・ヴィーラー(ドイツ)そして今回松本修と、現代世界最高レベルの演出家の下で舞台修業をしてきているから、この女優の将来に大いなる期待をもたざるを得ない。現代フランスの代表的女優イザベル・アジャーニも舞台から出てきたひとである。

 なお大急ぎで付け加えておけば、場面転換ごとの斎藤ネコの音楽は心地よく誘うものであった。音楽もこの舞台を味のあるものにした重要な要素であったのである。……(2007年12/6記) 

われらにとって美は存在するか (講談社文芸文庫)

われらにとって美は存在するか (講談社文芸文庫)