時代と高校

 
 小林哲夫氏の『高校紛争1969-1970』(中公新書)は、1969年(68年度1月)東大安田講堂での学生と機動隊との衝突などの事件を背景にした、高校生による全国的な紛争の頻発からはじめて、70年代に入り紛争が、校内における政治活動予防の管理・警備体制の強化と校則違反者への厳しい罰則を主たる要因として終焉を迎えるまでを、典型的な事例を中心に克明に追っている。「反安保」「紀元節復活反対」などの「反国家権力」の大きなスローガンを掲げつつ「制服自由化」「受験準備教育打破」「定期試験廃止」「検閲の廃止」「生徒心得の廃止」といった高校独自の訴えもぶつけながら、具体的な行動としては、学生運動の影響下で、「校内封鎖・占拠」「授業ボイコット」「大衆団交」「校外でのデモ」を実行していた。
 ほとんどが生徒側の敗北に終わっているが、この本では、「稀なる勝利」を謳歌できた学校を紹介している。愛知県立旭丘高校と、東京私立麻布高校の二つ。旭丘高校は、「管理教育と無縁なまま今日にいたっており、県内で唯一の制服自由化を貫いている」とのこと。紛争が「さまざまな要因が重なり合って断続的」に続き、当時「授業中にラーメンの出前をとる人さえいました(某卒業生・大学教授)」麻布高校は、「教養色の強い、受験一辺倒でない」教育が定着し、『100年史』第1巻(1208ページ)中、「紛争の記述が250ページにわたって掲載されている」とのことである。
 こちらは、この期間都立の定時制課程に勤務していたので、紛争生徒らと直接対峙するしんどさは免れていたが、ある年「反戦高連(革マル派)」系の活動で退学となり定時制課程に編入学してきた女子生徒とは、ときには夜が明けるまで議論したことを思い出す。このとき革マル派の理論的教祖亡き黒田寛一の著書(現代思潮社&こぶし書房刊)もけっこう読んだものだ。かなり時が推移してこの人から手紙が届き、結婚し子供がいること、子供同伴でぜひ会ってほしいとの文面であった。返事は出さなかった。
 都立上野高校の紛争では、「クラス別の時間割廃止と自主ゼミナール実施」ほかを要求して、闘争委員会によって1969年バリケード封鎖が実行された。この結果自主ゼミナール制が実現している。多岐にわたるテーマは、「丸山真男の『日本思想』」「カミュ『異邦人』における極限状況の設定」「ルソー『エミール』」「梅本克己『現代思想入門』」「ヘーゲル精神現象学』」「フッサール現象学』」『パリコミューン」「アルカリ金属およびアルカリ土金属」「核酸の化学」など、いずれも大学に進めば、それぞれの専門の研究者の講義を受けられる類いの内容である。こちらが高校のころ、後に大学に転職した物理の先生が、英語のテキストの継続講読会を行い、物理好きな生徒らが私的に学んでいたことが思い起こされる。自主ゼミを時間割に組み込んでしまえばそれが日常となり、倦怠を招くことは必然であったろう。
週刊東洋経済』(東洋経済新聞社)4/21号によれば、大学進学実績で「白鴎サプライズ」を起こしたとされる都立白鴎高校中高一貫校)では、「生徒の家庭にアンケート調査を頻繁に行い自宅学習時間などを把握。データ分析に基づく学校経営方針を強力に打ち出した。文武両道ではなく、勉強第一の旗印の下、各生徒の学習時間を確保するために、午後6時までに下校しなかった部は活動停止処分にするという徹底ぶり」で、「適度で多量の宿題」を課して「自宅学習を促す」とのことだ。いったい高校紛争は何のために闘われたのだろうか。活動家個々人としての〈得難い人生の経験〉とか、〈心情の純粋性〉を〈評価〉し得ても、得られた成果はあまりにも乏しかったのではないか。
 東大安田講堂での学生と機動隊との衝突を報じるニュースで沸き立ったときに兄夫婦の結婚式&披露宴が催され、二人の間に生まれた長男N君が、麻布学園→東大建築科と進み、いま一級建築士として活躍している。この本を読みながら、ある感慨をもってわが個人史も辿ったことである。

高校紛争 1969-1970 - 「闘争」の歴史と証言 (中公新書)

高校紛争 1969-1970 - 「闘争」の歴史と証言 (中公新書)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家に咲く、上カラー(オランダカイウ)、下ホタルブクロ。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆