はかなさについて


 竹内整一東京大学教授の『「はかなさ」と日本人』(平凡社新書)は、無常観(無常感)をめぐる日本思想史である。最後のところで、必ずしも現代の代表的知識人とも思えない人物の〈美文〉をもってまとめているのは、いかにも思想史の研究者らしい「無害・無毒」の締めくくりであるが。3・11以降の生き方を考える上で大いに参考となる。
 そもそも「儚(はかな)し」の「はか」とは、ものごとを計算する「はかる=計る・量る・測る」であり、またものごとの見当をつけてあれこれ付き合わせ、論じ、調整するという「はかる=諮る・忖る・衡る」であり、さらに、ものごとを自分のためにもくろみ企てるという「はかる=図る・策る・謀る」でもある。「はかる」いとなみは、現代ビジネス社会で第一義的に求められる。これは、つねに未来の目標に「前のめり」で立ち向かう西洋近代以来の姿勢と重なる。しかし今日そのような「はかる」発想の根幹がぐらついてきている。日本の各時代の思想心情の根底にあった「儚し」の伝統を掘り起こし、ネガティブな意味を突き抜けてポジティブなものがそこに生まれた思想心情の表現を辿ろう、というのが著者の企図である。
「はかなさ」超越には図式的に三つのタイプが分けられるという。Ⅰ「夢の外へ」、Ⅱ「夢の」内へ、Ⅲ「夢と現(うつつ)のあわいへ」である。Ⅰでは、「いろは歌」『往生要集』『古今集』『一言芳談』『方丈記』、国木田独歩和泉式部西行などがとりあげられている。Ⅱでは、謡曲、『閑吟集』『葉隠近松門左衛門などが、Ⅲでは、『徒然草』、伊藤仁斎などがとりあげられている。Ⅰのタイプの『方丈記』における「閑居の気味(閑かであることのよろしさ)」に触れて、
……“諦める”という言葉は、英語の場合で見ても、受動形でbe resigned(退かされる)と表現される消極的な事態を示しています。しかし、それはときに、能動形で、resign oneself toという言い方をすることがあります。その場合にはto以下に目的語を必要とします。つまり、自分をたしかに退かせはするけれども、それはある目的へと退かせるというかたちをとっているということです。たとえば、resign oneself to Godと言うと、神に退く、というよりも、むしろ他のことをすべて諦めて、神だけに収斂していく、帰依する、といった積極的な意味合いになります。
 ある意味では、さきに見た「厭離穢土」、「欣求浄土」にも、こうしたresign oneself toの思想構造を見いだすことができます。われわれを「穢土」からresignさせて、to「浄土」へと収斂させる、ということです。……
 Ⅱでは、意味や目的などではない、体感とか味わいといった「強度(インテンス)」こそ人生にとって大事な問題であるという発想の例として『梁塵秘抄』の歌謡を紹介して、(NHK大河『平清盛』でお馴染みの)
……遊びをせんとや生まれけむ 戯(たわぶ)れせんとや生まれけん
  遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ 
 これもまた、大きく見れば同じ発想に入れることができます。意味や目的や秩序・真理といったものが失われ、見えなくなってしまったという否定的なとらえ方だけではなく、むしろ、そうしたものを無みするところに、生の積極的な味わいを発見しようとする考え方です。……
 Ⅲを代表する『徒然草』の兼好法師は、「頑張る」生き方を排し、「つれづれ」をよしとした。しかしこちらの私見では、この境地は、「森羅万象に驚く心」と美意識を欠けば、著しく低俗に流れよう。
……「つれづれ」というのは、つまりは無目的の状態です。無目的とは、見方を変えれば、やりたいことをやるということです。外・先においた目的によって自分を縛らない、手ぶらの状況です。花見をしたいと思えばする。競馬を見たいと思えば見る。何かを書きたいと思えば書く。無目的の「つれづれ」とは、つまり、今やっていることがそのまま目的になっているあり方です。したがってそこには、何も「待つ」ものはない。すべてを[遊び]として、「しばらく楽しぶ」あり方です。そうしたあり方においてこそ、“今ここにあること”の「ありがたき不思議」を生きることができるわけです。……

「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史 (平凡社新書)

「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史 (平凡社新書)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町に咲く、アザレア(西洋躑躅)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆