吉本隆明没後8周年

 本日3/16は、詩人吉本隆明没後8周年の祥月命日(2012年3/16没)である。今回は、鹿島茂氏の『吉本隆明1968』(平凡社新書)についてのかつてのわがHP記事を再掲し、参考として、2009年6/18『東京新聞』「大波小波」欄の「鹿島茂ルサンチマン」を載せたい。

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◆仏文学者鹿島茂明治大学教授の『吉本隆明1968』(平凡社新書)は、同じ下層中産階級出身の出自をもつ著者が、吉本隆明氏の思想のどこにその偉大さがあるのかを解明した力作である。鹿島氏は、本年華甲を迎えるいわゆる団塊の世代に属し、1968年に神奈川県立湘南高校を卒業し東京大学に入学している。全共闘運動の時代である。時代の波に呑まれるようにして、〈反体制〉活動に関わることもあったが、違和感が抜けなかったようだ。そのとき出会った吉本隆明氏の著作『擬制の終焉』および『芸術抵抗と挫折』『自立の思想的拠点』などによって、高村光太郎に代表される前世代の人生とみずからを重ねて思想的に苦闘した吉本隆明(の世代)と、今度は鹿島茂氏がその時代的社会的位置を重ねて、違和感のよってきたる所以と、その思想の近代=戦後日本における意義を考察している。読書遍歴をほぼ同じくしているので、表現と比喩の巧みさもあり大いなる共感をもって読むことができた。あまりよい読後感はもてなかった鹿島氏の、かつての東京都の「学校群制度導入」に対する悪罵などを思いだして、氏の世の「平等志向」嫌いが吉本思想に支えられつつ醸成されていたことを知ることもできた。
 吉本隆明という思想家が団塊世代のある部分の人びとに支持されたのは、その「倫理的信頼感」にあったと、著者は「あとがき」で述べているが、これは、著者より若い世代の社会学宮台真司氏もかつて指摘しているところである。ソクラテス風には「汝自身を知れ」ということになろうが、吉本隆明の場合は、欧米に遅れて近代化を推進しなければならなかった近代およびその延長としての戦後日本社会の社会構造との対応の問題として、「汝自身を知れ」としているのであって、とくにその社会階層的出自が己に強いるいわば身体的現実を無視・捨象して、「ウルトラナショナリズム」やら「スターリニズム」やらのイデオロギーに跳躍してしまう欺瞞を痛打しているのである。「留学体験」も「転向」も「自立」も、この核心的な思考と認識にもとづいて考察され、それらの問題をめぐって吉本前世代の人物たちが俎上に乗せられている、ということだ。
 就中「世界共通性(芸術・文化の了解可能性)」と「孤絶性(後進国日本における了解不可能性)」との葛藤に苦悩した高村光太郎についての考察を追った第4〜6章が、この書の白眉で、昔神楽坂の会場で聴いた、吉本さんの高村光太郎についての講演を思いだしつつ読み進めた。(その折吉本隆明氏から、著書『高村光太郎』にサインを入れていただいたことは忘れられない体験となった。)
『畢竟するに、このときに感じた違和感が吉本隆明の文学的営為のすべての出発点になります。高村光太郎は、他の戦争協力文学者とは異なり、平和になったとたんに、コロリと転向して、民主主義万歳を叫ぶようなことはありませんでしたが、それでも、吉本は「負けた以上、今度は精神の武器で自分を強くして真善美の文化を作り上げよう」などと前向きなことを言える精神がこの詩人にあるという事実に愕然としたのです。』
 高村光太郎は、この葛藤を自然法的なピューリファイ(purify)のレフェランス(reference)として、智恵子を、そしてその発狂後は戦争を選ぶことによって〈克服〉していったというわけである。戦中戦後その道をとれなかった吉本青年は、位置的には近かった「四季」派に対しても、その「西欧的認識・西欧的文学方法」が「日本の恒常民の感性的秩序・自然観・現実観を、批判的にえぐり出すことを怠って」いる限り「あぶくにすぎない」として自戒を込めて批判したのである。鹿島氏は、ここを基点に吉本「大衆の原像論」が成立した過程を論証しているのである。(2009年6/5記)