アッシジの聖フランシス⦅聖フランシスコ(アシジ)修道者⦆


 
 下村寅太郎著『アッシシの聖フランシス』(南窓社)は、昔愛読した西洋中世思想関係の一冊である。パラパラ捲って赤く傍線を記したところを読み直してみた。この本は面白く名著であるが、生前の先生の哲学の講義は声がすこぶる小さく、ほとんど聴き取れず難渋したことを思い出す。
◯【名前】フランス語が達者で、普段フランス語が彼の口から出ることから「フランス人(※フランチェスコ)」の呼び名が由来したことが自然であるように思われた。(p.52)※本名は、ジョヴァンニ・ベルナルドーネ。
◯【哲学】フランシスと哲学が問題であって、フランシスの哲学ではない。フランシスの哲学というものはない。フランシス自身には哲学も神学もない。寧ろそれを拒否した。フランシスは「思想」をもたない。フランシスは唯経験しただけである。その経験によって把握されたものに留まらんとした。それがいかに厳粛苛酷に見えようともその裡に安住した。それが貧困単純の「実例」の生活であった。これを自己の本分としただけでなくすべての兄弟たちにこれを要求した。このことの外にフランシスに「思想」はない。フランシスの著作は前述のように戒律と遺書と数篇の詩と書翰の外なく、これらの著作の内容も右の経験の表白であり、それに尽きている。(p.248)
◯フランシスは孤絶した修道院裡に瞑想苦行した聖者でなく、貧しく無学な庶民の間に庶民と共に庶民として生き、特に庶民大衆の間に敬愛された人である。(p.49)
◯フランシスの運動は専ら聖者伝乃至宗教史の事件としてしか扱われていないが、社会史的には、この宗教運動は中層階級の革命運動の性格をもっていたことを注意してよい。(p.93)
◯【女性】フランシスが二人の女性(※聖クララとジャコバ夫人)の貌をしか知らなかった、というのは「聖者伝」の誇張のように見えるが、これはフランシスが婦人との関係の純潔を守ることに極度に敏感にして厳格であったことを語るためであり、同時に彼の時代の社会の一般的風潮に対する聖者の「範例」を示すためであったであろう。実際に、彼は単独ではどんな婦人とも語ることは滅多になかった、止むを得ない時にも言葉数は少なかった、又顔を見ないのが常であった、という。そのようなフランシスに対してこの二人の女性は特別の意味をもっている。(p.110)
◯フランシスの初期の仲間は実際はアリストクラットである。所有に飢えている者は無所有の徳を解しない。貧困の奴隷であっても貧困の主人、貧困の支配者ではない。フランシスの真の伴侶は貧困を支配する「貴族」である。ー貧困に安らう者、貧困を悦ぶ者、所有の絶対的否定者である。内的精神的な貴族である。フランシス教団の堕落はこの貴族主義の喪失による。(p.147)
◯【無所有の乞食団】聖ドミニクの説教団もこれに倣ったが、しかしドミニクにおいては貧困は目的に対する手段であり、福音説教者たることの資格の一項目にすぎないが、フランシスにとっては貧困は目的そのものであり、キリストの模倣に必須のものであった。(p.173)
◯【経験主義】フランシスの貧困の原理が、無所有の理念が、単に財を捨てることではなく、最後に、精神的な誇りを捨てることにあり、謙虚が理性や知性のそれに及ぶ時、我々はこれがスコラ哲学に対する拒否を帰結すること、そして哲学史における「経験主義」に導くことに想到するであろう。そうしてこのアッシシのフランシスの道がはからずも近世のフランシス・ベーコンの思想につながることを思わしめる。(p.189)
◯フランシスの乞食団の創立は中世の修道院の最後の大規模な改革運動であり、修道院の理想を全社会において貫徹せしめる意味をもっていたが、教会の歴史と体制から絶交することは出来なかった。(p.206)
 http://visitaly.jp/unesco/assisi-la-basilica-di-san-francesco-e-altri-siti-francescani
 (「アッシジ:聖フランチェスコ聖堂と関連遺跡群」)
 http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=100401
 ⦅「聖人カレンダー:聖フランシスコ(アシジ)修道者⦆
 http://www.ndsu.ac.jp/education/christian/blog/2016/10/104.html
 (「ノートルダム清心女子大学:10/4アッシジ聖フランシスコの祝日に寄せて」)