災害と宗教

 昨年の大地震では、わが家は5弱の揺れに襲われ、庭の松の木の下でどうにかやり過ごした。昔贈られた石灯籠は倒れてしまった。昨年暮れに庭師の方が石灯籠を立て戻してくれ、いまはメジロの番などが訪れ、庭も平安である。
 ところで、アメリカ国民および国家が、いかなる場合においてもいかに『聖書』のことばと考えに規定されているかを、わかりやすくかつ具体的に教えてくれるのが、石黒マリーローズ英知大学教授の『聖書で読むアメリカ』(PHP新書)である。
 国民的規模であろうと、個人の問題としてであろうと、重大な災難に遭遇したとき、「ヨブ記」の経験と信仰は、依然として「いま」の試練として出現するようである。「詩編」のことばもアメリカ国民には常に身近にあることを学べる。わが日本聖書協会『共同訳』の「詩編」第23章を読んでみると、
……主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。/死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。/あなたがわたしと共にいてくださる。/あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。……
 現代日本において、勇気というものを根源的に支えるものが欠けているとすれば、『聖書』の物語が制度のなかに生きているアメリカは、羨望の対象ではある。ハリケーンカトリーナの災害のとき、ひとりの牧師が生存の会衆と共に「あなたが頂いた多くの恵みを数えなさい」と歌っていたそうだ。
……番組では非常に賢明にも、この善良な男の人を“man of God”(神の人)と呼び、彼の行為を多くの人の心と生活に違いをつくり出すものだと言ったのです。そしてそれは、私たちが反省するべきことでもあります。それは、神の味方にならない者、神のチームに加わることを選ばない者は、悪魔と一緒になってあらゆる誘惑とたくらみを選ぶ者に等しいからです。……(同書)
「神の味方にならない者、神のチームに加わることを選ばない者」の側に追いやられた場合、イラクパレスティナの民衆のようにひどい仕打ちを受けても自業自得ということになるのだろうか? この著者は、この書物の企図に著述を限定したかったこともあろうが、まさに「死の陰の谷を行くとき」であったろう9・11における被害やハリケーンカトリーナの災害に関して、アメリカのシステム自体の病弊に言及しないところに、大いなる不満をもつ。
 この大災害を契機に、日本においては釈尊の教え(仏教)が顧みられるべきであろう。方便としてのことばに拘泥しすぎて、たんなる教養となってもだめだし、また生悟りを警戒するべきであるにしても、人生の覚悟のようなものは確立できる。こちらもかつて愛読した原典の頁を時おり捲ってみたい。

ブッダ神々との対話―サンユッタ・ニカーヤ1 (岩波文庫 青 329-1)

ブッダ神々との対話―サンユッタ・ニカーヤ1 (岩波文庫 青 329-1)