D.ヒュームの『自然宗教をめぐる対話』(犬塚元訳、 岩波文庫)は、神の天地創造をめぐって、正統派のデメア、懐疑主義のフィロ、自然宗教のクレアンテスの3人が議論を繰り広げる展開で構成されている。整った秩序をもつ機械が人間の思考・知性・計画としてはたらく精神の産物であるとの経験的類推から、この整った秩序をもつ自然・宇宙も神によって創られたと考えるのがとうぜんであろうとするクレアンテスに対して、機械のような経験的に捉えられるものを部分とし、捉えられない部分をも含む全体である、この自然・宇宙をどうして神が創造したと確証できるのか、不完全である人間の精神からの類推でもって完全無欠であるはずの神の、しかも単一の神の〈精神〉による創造と断言できるのか、と迫るフィロの対話は面白い。
フィロ「……この世界は、ある幼い神が、手始めにつくってみた粗雑な試作品にすぎず、その神は、劣等な技量を恥じてそののちにこれを見捨てた。あるいは、この世界は、ある従属的な地位の下級の神が単独でつくりあげた作品であり、上級の神々の嘲りの対象である。あるいは、この世界は、現役を引退したある神が、年老いて耄碌してからつくった作品であり、その神亡きあとには、神から授かった最初の推進力と活動力を頼りにして、出鱈目に進み続けている。デメア、あなたが、こういった奇妙ないくつもの想定を聞いて、おぞましい気持ちを表情に見せるのも無理はありません。しかし、こういった想定、同じようなさらなる幾千もの想定は、わたしの仮説ではなくてクレアンテスの仮説なのです。神の属性は有限であると想定した瞬間から、こうしたすべてが生まれたのです。わたしには、これほど乱暴で不安定な神学体系が、体系をまったく欠くよりも、どの点でも勝っているとはとても思えません。」
クレアンテスが叫んだ。「わたしは、そんな想定は絶対に認めませんよ。ただし、おぞましいとは感じません。とくに、そうした想定をあなたが漫然とお話になる場合にはそうです。反対に、わたしは、これらの想定を聞いて嬉しく思いました。というのも、あなたが、なにより好き勝手に空想したにもかかわらず、宇宙には計画があるという仮説は放棄せずに、むしろ要所要所でそれに依拠せざるをえないことが分かりましたから。わたしは、この点にあくまでもこだわっています。この点こそが、宗教の十分な基礎であると考えているのです。」(第五章 p.95~97)