学力低下をめぐって


 ずいぶん前のことであるが、『中央公論』2005年4月号で、「学力崩壊—若者はなぜ勉強を捨てたのか」と題して特集を組んでいる。いま読んでも、幸か不幸か有効な問題提起となっている。この特集は、国語専門塾代表・中井浩一氏がこの企画のまとめ役で、氏の巻頭論文を始めに、山田昌弘東京学芸大学教授、竹内洋京都大学教授、博報堂生活総合研究所研究員・原田曜平氏本田由紀東京大学教授らの論文、若手文科省官僚らの座談会、そして中山成彬文科省大臣へのインタビューによって構成されている。
「今は時代の変革期である。そして、その規模の大きさと徹底性という点では、それは明治維新や戦後の改革に匹敵するのではないか」と考える中井浩一氏は、すでに「豊かな」社会になってしまった現在の日本では、若者に勉強させる「人参」=インセンティブがなくなっているのであって、文科省を叩いてすむ問題ではないと警告している。文科省の行政上の力でさえ、私学および都道府県の教育委員会に及ぶほどのものではないのだ。
 マスコミは、一方では「学力低下」を問題にし、他方では「学習意欲の低さ」を嘆いてみせるが、これは無い物ねだりではないか。一般に発展途上国アジアの「キャッチアップ型」では、意欲は低いが学力は高く、アメリカ、フランス、イギリス、ドイツなどの西欧の国ではその逆になっている。今後日本はアジア型を抜け出し、西欧型へと移行せざるをえないであろう。
 山田昌弘氏の論文は、『希望格差社会』(筑摩書房)で指摘されていること以上の議論はない。次の見解は今後の教育論議の当然の前提となろう。
……教育は、教育だけで成り立っているものではない。特に、今生じている教育問題は、教育と職業という領域の「継ぎ目」で生じている問題である。その継ぎ目を放置しておいて、教育内容の改善とか、教え方の工夫だけで、学力低下問題が解決できるはずはない。…… 
 竹内洋氏は、OECDPISA調査(2003年)によれば、学校外学習時間が日本よりも少ないフィンランドは、数学の学力でも数学的リテラシーでも世界のトップであることに注意を促し、「宿題や課題の時間数は、数学に限らずすべての学力と統計的に有意に負の相関である。宿題や課題のための学習時間が多いほど、学力は低いということである」と分析している。もはや「大衆勉強動員時代の刻苦勉励的学力観」では対応できない社会が到来していると、氏は認識し、これは必ずしも悲観的に見るべきではなく、高雅なエリートの文化とともに、これまでは「刻苦勉励」に無理にかり出された勉強ノン・エリートに独自のライフスタイルと文化が成熟していく可能性も考えられるとしている。文化における社会の二極化を支持待望する議論といえよう。
 原田曜平氏の論文によれば、「サラリーマン大国・日本の崩壊を、誰よりも敏感に感じているのは、大人よりもむしろ子どもたちの方なのかもしれない」とし、「学力を失った今の子供たちが、学力の代わりに、上の世代が幼少時代に持っていなかった力を身につけ始めていることが見えてきた」ということである。この能力とは「コミュニケーション能力」のことである。偏差値の高い男子高に通う男の子たちも、かつての「ガリ勉」タイプは激減し、女の子との接し方も自然で、誰とでも仲良く話せたりする。このことに象徴的なように、現代の若者たちは、従来の学力の代りに「対人関係能力」を磨き、将来についてもけっこう前向きに考えて実践的に生きている者が少なくないことを述べている。マスメディアが、自らの体質を改善できなかった「時代の被害者」ばかりを取りあげて。大人たちの不安を駆り立て続けることについて苦言を呈しているのは、確かにあたっているだろう。
 本田由紀氏の論文では、この「対人能力」の格差こそが、学力格差論議に隠れていながら、重要な問題であることを〈実証的〉に分析している。「対人能力」が弱いと「進路不安」を生みやすいとし、教育課程全体を実生活や仕事としっかりと結びついたものにしていくことが必要であると述べている。
 総じて、これまでの教育観の変更が必要であることを痛感させる議論であるが、どういう教育の制度と内容とするべきなのかについて、具体的かつ実践的なイメージの見えてこない〈分析〉と〈提言〉で終わっている。ただ現場教員に心構えの革新を迫る論議となりえていることは間違いない。

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

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⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町に咲く、上ミツマタ、下寒桜。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆