ドストエフスキーの「推しメン」少女

 6/28の『罪と罰』のついでに、わがHP記載の『カラマーゾフの兄弟』についての記事を再録しておきたい。なお、ドストエフスキー作品中の花・植物については、すでに触れている。
  http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20101019/1287481056(「小説作品中の植物名」)
亀山郁夫氏の新訳・ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』(光文社文庫)の第4部まで読み進んできた。この大長編とのひさしぶりの遭遇である。人物像のたしかな描写にあらためて驚嘆している。花・植物については後にまとめて書くつもり。食べ物に関してはさすがに、フランスの小説ほど詳しくは描いていない。
 本日読んだ第4部第11編のところ。監獄に収監されているミーチャ(ドミートリー・フョードロヴィチ・カラマーゾフ)を訪問してきた恋人のグルーシェニカが、彼女宅に来たアリョーシャ(アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフ)にピロシキを勧める場面で、このピロシキに興味をもった。じつはまだ口にしたことがない。
『「でしょう。フェーニャ、フェーニャったら、コーヒーをさしあげて」グルーシェニカが叫んだ。「さっきからもう煮立ってるの、あなたを待っていたせいでね、それに、ピロシキもお出しして、熱くしたのをよ。いや、アリョーシャ、ちょっと待って、じつは今日このピロシキのことでひと悶着あってね。わたし、監獄のあの人のところへこれを持っていったの。そしたら、彼ね、いい? これをこっちに投げ返したまま、ついに口にしようとしなかったの。そのうちのひとつは床に思いきり叩きつけて、足で踏んづけるじゃないの。……」』 
 ピロシキは、日本でいえばおにぎりにあたるパンのようだ。ここでグルーシェニカが出したピロシキは、揚げたものではないようだ。本場のものを味わってみたいもの。(2009年2/9記)
◆ようやく亀山郁夫氏訳『カラマーゾフの兄弟』(光文社文庫)全巻読了。今回は、とくに小悪魔的な少女リーザと、大人びた秀才少年コーリャ・クラソートキンの存在と言動に注目させられた読書となった。
 はじめはアリョーシャに恋文を贈ったリーザは、第4部第11編では、アリョーシャにその兄イワンへの手紙を「必ず渡してくださるのよ!」と言って託す。まさに小悪魔である。〈少女萌え!〉のドストエフスキーが惚れ込んで書いているのは間違いない。
『いっぽうリーザは、アリョーシャが帰ると、すぐに、錠をはずし、ドアを少しだけ開いて、その隙間に指をはさみ、ドアをぱんと閉めて、思いきり指をつぶした。十秒ほどして指を引きぬくと、彼女はしずかに、ゆっくりといつもの車椅子にもどり、背筋をぐいと伸ばしたまま、腰をおろし、黒ずんだ指と、爪の下からじわじわとにじみ出てくる血にじっと目を凝らしだした。唇が震えていた。彼女は早口に、すばやくつぶやいた。
「ああ、わたしって、なんていやらしい、いやらしい、いやらしい、いやらしい!」』 
 ドストエフスキー文学ほか学ぶところあったロシア文学者の内村剛介氏が、先月30日に亡くなった。ご冥福を祈りたい。吉本隆明氏が、「東京新聞」2/9夕刊に「追悼・内村剛介さん」を寄稿している。吉本氏は、内村剛介を「国家や主義に頑強に同化しない二葉亭につながる〈ロシア学〉の最後の学徒」ととらえている。内村さんの必ずしも熱心な読者ではなかったが、感じとしては納得できる。あわててかつて読んだ著書をわが書庫から探し出し、頁を捲ってみた

『内村……日本語だと、それは思想傾向とか何とかがおもしろくないということになるでしょう。あくまでテンデンシイですね。ところがロシア語ではポリティカルなナストロエーニエがよろしくないというわけですよ。もっとトータルで的確ですね。情念的なものが知性的なものにはからみついているはずだ、情を含まない知なんてインチキだということをふまえている。しかもこの表現はふんだんに日常的に使われるわけですね。ドストエフスキー全集がたくさん出ているけれども、たとえばウモナストロエーニエに対してなっとくのいく訳語を、新しい日本語を一つでも加えてくれるんだったら、新しい全集を出してもらってもいいわけです。』(『独白の交錯』冬樹社)
 作品中ミーチャ(ドミートリー・カラマーゾフ)が、よく「ベルナール一族」という罵倒のことばを放つが、これは、ひとの境遇をも事件をも批評して拍手喝采を得ようとする輩のことで、現代にも、犯罪者の孤独まで〈解明〉してみせて、原稿料を稼いでいることに無自覚な〈社会学者〉&批評家は多いのである。内村さんの述べる「情を含まない知なんてインチキだ」という、ロシア語にふれたことばは重い。(2009年2/17記)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町で、ランタナの花にとまるアゲハ。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆