植村和秀京都産業大学教授の『昭和の思想』(講談社選書メチエ)は、複数のタイプの思想の伝統をもつ日本の思想史のなかで、直接現代につながる昭和期の思想を、20世紀(世界)思想史をも俯瞰しつつ、考察している。植村教授は、時系列的に追求するのではなく、典型的なタイプの思想(発想の方法)の分類を試みている。「理」の横軸と「気」の縦軸が、十字路のように交叉する思想地図を設定している。(図は、同書p.18のもの)
「理」の軸には、「話をすればそのまま立派な文章になるほど明晰な人たち」である、丸山眞男と平泉澄が配置され、「気」の軸には、「話をしても何だかよく分からない。しかし、その気の伝わる人には、根源的に響く。そういう人たち」である、西田幾多郎と簑田胸喜が配置される。「理」の軸の左には、近代的民主主義の主体形成を主張する丸山眞男が、右には天皇主権と皇国理念を説く平泉澄があてられる。「気」の軸では、盛り上がってくるエネルギーをポジティヴに創造的に出す西田幾多郎が上に、どこまでもネガティヴにに否定的に出す簑田胸喜が下に、それぞれあてられる。
こちらは、丸山眞男と西田幾多郎の著作はある程度読んでいるが、残りの「理」と「気」の二人の著作はまったく読んでいない。植村氏は、「人間の創造的生の秘密を独自の論理に要約して、広く公開するもの」として、西田の哲学を評価し、最終章で「時代の先に出ることを意欲した西田たちの発想は、今こそ活かされていくべきでしょう」と述べている。ただしその限界が「原理を求めて、仕組みの立案に至らなかったこと」にあったとしている。
興味をもったのは、簑田胸喜についての記述である。簑田胸喜は、「人生以外経験より得来りたる形而上学的瞑想観念または自然科学的抽象観念ではない」「原理日本の体験による確信」こそ、「日本人の原理」であるとし、言論活動を批判する。
……簑田が他人の言論を批判するとき、それは、他者を責め続ける一方的な信仰告白に他なりません。そのため、批判された側には理解不能ですし、反発と困惑を生み出して、通常は黙殺されることとなります。しかし、黙殺された簑田は憤激し、さらに批判を強めます。このような論理と行動は、もちろん、ひたすらに一方的かつ独断的なものです。つまり簑田は、他者の良心の自由を認めず、自己の勝利と正義を勝手に主張し、自己批判による告白を他者に強要していくのです。……(同書pp.124〜125)
こうして滝川幸辰、美濃部達吉、河合栄治郎らの大学教授は失脚させられ、多くの有力な学者・思想家らが強い圧迫や猛攻撃にさらされたのである。時代の「空気」によっては、科学的知見のそれなりの客観性までも粉砕してしまいかねない「気」の力の侮りがたいことを認識させられるだけでも、この書を読む価値があるだろう。
- 作者: 植村和秀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/11/11
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