犯罪(人殺し)に文学的・思想的意味など存在しない

 東京都立大学教授で文藝評論家大杉重男氏のブログ『批評時間』の7/29付記事『古井由吉の「神の手」』に面白い批評があった。こちらは古井由吉のよい読者ではない(1冊も完読していない)ので、この〈セクハラ〉作家の作品についての、『「東アジア的専制主義」の最も洗練された表現』との論評にはあまり興味を惹かれなかったが、犯罪=人殺しをめぐる批評のところは面白く、肯首できるのである。

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……コロナで誰もいなくなった大学の学生室に置かれていた「群像」の批評特集「「論」の遠近法」の中の大澤信亮「非人間」を読んだが、それはまさに「人を殺す」ことについて「文学」的に考えることが、いかに花鳥風月的伝統芸能になっているかの典型例に見える。大澤氏は二十年間個人的に気になっていたという通り魔殺人事件について縷々自分語りをしているのだが、秋山駿以来の伝統的文芸批評のお座敷芸を見ている気にしかなれなかった。自分は子供のころから「キレ」やすい人間だったといった「キレ」自慢が、結局パワハラ体質を自分から告白することで正当化しようとする「私小説」的告白の劣化形態にしか見えない。

キリスト教信仰との葛藤を抜きにした)ドストエフスキー文学の影響であろう、犯罪(人殺し)に文学的・思想的意味を探ろうとする文学オタクは多い。しかし犯罪(人殺し)は犯罪(人殺し)でしかなく、たとえば次のようなものである。

   何か人殺しの匂いのする大立回りを描かなければ現代文学たり得ず、との誤解があるのではないか。犯罪は旧約聖書の大昔からあり、どう社会システムが変わろうと、これからもなくなることはないであろう。そのことじたいに文学的・思想的意味などないのである。大杉氏指摘の「花鳥風月的伝統芸能」としてPC画面を前に考えることは構わないが、それこそが現代文学の課題だと勘違いしてはいけないということである。「殺意」は日常のどこにも、じつは潜んでいるかもしれないのである。