池田晶子さん

東京新聞」10/6(木)夕刊に、井筒俊彦の研究家として著名らしい評論家の若松英輔氏の連続講演会のことが紹介されていた。
  http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/izutsu/若松英輔井筒俊彦入門」)
 そこでとりあげられた一人に、池田晶子がいるとのこと。若松氏は、「池田さんの登場で、哲学本の文体が変わった。これまでなかった新たなジャンルが生まれたということであり、夏目漱石小林秀雄の仕事に匹敵するくらいの意義がある」と述べている。池田晶子さんの著作はほとんど読んでいる。氏の指摘に共感を覚えるところもある。「哲学とは子どもが考えていたことだ、と彼女は言いたかったのだと思う」と、若松氏が述べる『14歳からの哲学』(トランスビュー)上梓の折催された、東京神田三省堂でのサイン会で、直接この美しい思索の人を拝顔できたことはよい思い出である。

 わがHPにかつてあちこち書き散らしたと記憶する池田晶子関連の記事中、二つばかり再録しておきたい。

◆夏の喜びは昼寝に尽きる。「をさなくて昼寝の國の人となるー田中裕明」 清水哲男氏は、この句の「をさなくて」を夜の就寝前と違って、昼寝の前はあまりごちゃごちゃ考えないでもよく、とりあえずの一休みという気楽な精神状態を指しているのではないかとの解釈をしている。なるほど、夜の闇の中と異なり、ひとは哲学的な謎に戸惑うことはないだろう。「参った参った」などと声を出して、畳にひっくり返れば、なんとなく「昼寝の國のひと」になれてしまうのである。(女性もすべて同じ立場にあるかは知らない。)
 わが短篇集『メドゥーサの眼』(龍書房)も、ひとが眠っている時も生きているとすれば、心はどこにあるか、という哲学的謎を潜ませているが、そこには触れてくれる人はいない。「不眠症の主人公」などというとんちんかんな某書評の捉えかたには、あえて訂正を求めていない。
 池田晶子さんも近著『ロゴスに訊け』(角川書店)で、次のように書いている。
…… 少なくとも私にとっては、霊の存在なんぞよりもはるかに不思議である。見えようが見えなかろうが、存在するものは存在するからである。存在しないものは最初から存在しないからである。見える見えないということと、それが存在する存在しないということが、じつは関係ないのは、たとえば夢の存在を考えてみると納得できる。目は閉じているにもかかわらず、ありありと「見える」のはどういうわけか。つまり、われわれはあれを目で見ているわけではない。しかし、存在しないものは見えるはずもない。このように、見える見えないと存在するしないは、関係がないのである。……
 さらにインターネットやホームページでの表現については、昼寝どころではない、厳しい言葉である。
……「ホームページ」というのはつまるところ「自己表現」ということらしいのだが、その表現されるところの自己がナンボのものか、それが問題である。なるほど表現することは自由だが、言語とはそれ自体が精神に課するところの必然、必然的形式である。そのことを自己として自覚することによって、その精神は言語となる。……  
 おそらくその通りであろうが、「俗を出でて俗に入る」という知恵の深さもあり、また、「大隠は市に隠る」という中国の詩人の言葉も味わい深い。むろんこの本の裏表紙のカバーの裏に、おそらくノーブラでその半身の写真を載せている美人哲学者の池田晶子さんのこと、形而下の世界との、ほどほどの付き合いも心得ていることであろう。(2002年7/21記)
◆「哲学の巫女」池田晶子さんが急逝した。2/23(金)の夜、日暮里のジャズスナック「シャルマン」でカーティス・フラーを聴いている時だったのだ。遺言ともいうべき書『君自身に還れー知と信を巡る対話』(本願寺出版社)が上梓された。対話の相手は、浄土真宗教学の碩学大峯顕氏である。ここはいっさいのコメントは控えて二人のことばだけ記しておきたい。酒を愛し考えつづけた池田晶子さんには、もっともっと生きていてほしかったと述べても詮無いことである。(I=池田晶子さん、O=大峯顕氏)

I:宗教のお話を聞きに来る人が減ったということですが、やっぱり言葉が価値であることを忘れたということだと思うんですね。人が言葉というものを信じなくなっている。言葉というものが人生にとって如何に大事なものか。人生とは言葉そのものだなんて、まったく理解しませんね。言葉とは、携帯電話で話して垂れ流すもの、話すとは思ったままを話すことであって、そうではなく考えたことを話すものだといっても、人は理解できない。人がほんとうに自分が生きるか死ぬかのクライシスになったとき求めるのは、お金でもモノでもなくて、ほんとうの言葉でしょう。言葉がなければ人は生きられない。この真実に気づかないから、人の話を聞きに行こうとか、哲学の本を読もうとか、そういうことがない。言葉というものが非常に軽視されている。
O:ああ、言葉を感じなくなったね。言葉は生活の手段だけになっているんですね。実際、誰でも言葉を使って生きているから、それは確かに言葉なしに生活しているわけじゃないんだけど、そういう言葉はある目的を達成するための手段でしょう。日常の世界じゃ言葉が手段になっている。

O:他にいったいどんな方法があるのかと言われたら、何も言えない。存在の歴運ですね。運命です。要するに人類の歴史はそんなところまで来ているんだということでしょう。人間が技術の独走を人間の合理的な生活に合うように戻せという、そんなヤスパース的発想じゃとてもダメだという。
I:まさにそのことが危険ということでしょう。危険の領域に入っているということを自覚する人すら少なくなってますからね。かつてはもうちょっといたと思うのですけれど、もう子どもがこういう状態になってますから。これが当たり前と思ってしまっている。

O:その修羅はやっぱり人間にならなくてはならない。十方の衆生と言っても、言い方を変えればやっぱり人間のことなんですよ。仏教は人間をその根源から救済しようという教えなんです。人間の根源的救済ということをどこまでも深く突き詰めたときに初めて十方衆生という表現になるわけで、どこまでも人間の問題だと思います。
I:でもその人間とは何かを考えて行くと、まさに枠を超えて行ってしまうわけですから。どこまでを人間と言うべきかわかりません。
O:そうです。つまり人間という存在は動揺性を持っていて、絶えず輪郭が振動しているんです。人間は絶えず移行点としてあるのであって、確定した固定点としてはないんですよ。人間というものの無気味さですね。人間は何かわからないというところがある。人間とは何かわかったようなつもりで現代文明というものは成り立っているけれども、実は根本的な謎であって、そんな簡単なことではないのです。人間というものほどわからないものはない。自分の内に、修羅とか畜生とかそういうものをもともと可能性として抱えているんでしょう。
I:ああ、なるほどねぇ…。修羅というような人間を見るにつけ、私は哲学の限界を感じるんです。こういう修羅の出現を見ると、哲学というか理性の限界を感じてしまう。理性によっては、これが何者かが認識できないんです。
O:だから、それはヘ−ゲルなんかのロゴスの哲学の視野には入りきれないんですよね。ヘ−ゲルの場合は人間しか入ってこない。ただ、仏教は人間の問題なんだけど、人間を考える視野がもっとダイナミックというか。

I:わかるはずの何ものかがあるということは、わかっているんです。それがスポンと来るか来ないかという違いじゃないですか。
O:菩薩は真理に向かっている存在。菩薩ですよ、あなたも。
I:いきなり菩薩と言われても(笑)。
O:菩薩という言葉が抹香くさいなら無理に使わなくてもいいですけどね。
I:真理に向かっているという確信はあります。
O:菩薩というと何か抹香くさくなるけど、真理に向かっている人と言ったら抹香くさくない。同じことです。菩薩という言葉には今日ではいろんな線香の匂いがついてしまっているからね。(2003年3/12記)

2001年哲学の旅―コンプリート・ガイドブック

2001年哲学の旅―コンプリート・ガイドブック

死と生きる―獄中哲学対話

死と生きる―獄中哲学対話

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のトラデスカンティア・シラモンタナ(Tradescantia sillamontana:ホワイトベルベット)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆