倉皇として逃げもどる

 ここ(「東京新聞」)で、若松英輔氏は冒頭次のように書いている。
……今年は井筒俊彦(一九一四〜九三年)の没後二十年になる。来年は生誕百年を迎える。井筒は、文字通りの意味で二十世紀を代表する哲学者である。「日本の」という限定は彼の場合必要ない。井筒の評価は今でも海外の方が高く、また研究者も多い。……

 井筒俊彦の著作は、恥ずかしながら『イスラーム文化』(岩波文庫)しか読んでいない。さっそく『意識と本質』(岩波文庫)をamazon経由で古書店より入手。「意識と本質Ⅰ」をじっくりと読み始める。
 常に「…の意識」である表層意識は、コトバによって意味を指示しながら存在を分節化し本質把握をしている。この本質把握を喪失する体験が、サルトル『嘔吐』の主人公ロカンタンの「嘔吐」体験なのである。
…事実、「嘔吐」体験は、普通の人間の立場からすれば確かに一つの病的体験であって、そこにまたこの次元での意識の成立が、原初的「本質」認知または「本質」了解に依拠するところいかに大きいかということが露呈している。
 そして同時にまた、このことは、言語の意味作用、すなわち「存在」分節作用が、われわれの日常的意識の構造そのものにいかに深く関わっているかを物語る。さきにも一言したとおり、コトバの意味指示機能と事物の本質把握との間には本源的な相依相関がある。無名のXが一定の名を得るとき、それによって始めてXはあるものとして生起し、あるものとして存在的に結晶する。「道は名無し」と荘子が説き、「名無し、天地の始。名有り、万物の母」と老子がいうのはそれである。……(同書p.12~13)
 ここでスムーズに老荘思想老荘の言葉)と接続できるところが、読者としては意外にも新鮮である。さて通常ひとは「本質」で充たされた日常世界に安住しているが、公園で木の根っこを前にしたロカンタンのように、何かの契機で本質脱落が起こることもある。そのときひとはどうなるのか。
……つまり全く符牒のついていない無記的、無分節的「存在」の真只中に抛り込まれて愕然とするのだ。そしてまた、「本質」なるものの有難さを悟りもする。かくて人は「本質」の符牒の付いた、きちんと分節された存在者の世界に再び倉皇として逃げもどる。……(同書p.14)
 ※倉皇(そうこう):あわてふためくさま。ふだんの落ち着きを失うさま。(集英社『国語辞典』)
 http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/izutsu/(「若松英輔井筒俊彦入門」)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のツユクサ、上セトクレアセア・パリダ(紫御殿= Purple heart)、下トラデスカンティア・シラモンタナ(Tradescantia sillamontana)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆