「スコラ的厳密さ」

 哲学者の中島義道氏と評論家の小浜逸郎氏との往復書簡『やっぱり、人はわかりあえない』(PHP新書)は、ヤラセなしの異種格闘技の趣あり、面白い。七つの往復書簡から構成され、「他人との〈正しい〉つきあい方」「なぜ、ものを書くのか?」「善・悪とは何か?」「愛すること、嫌うこと」「幸せ?それとも不幸せ?」「未来はない?」「人生に哲学は必要か?」の七つのテーマをめぐって、相手の生活歴を踏まえた精神分析学的考察も交えて、辛辣な論戦が交わされている。個の人間としての資質の違いとも関連しながら、カントの立場に共鳴し、あくまでも狭義の意味での(学問としての)哲学のフィールドを守ろうとする中島義道氏と、功利主義の立場で、生活者の現実および関係性に固執し、広い意味での哲学=思想を構築しようとする小浜逸郎氏との相違が、どの問題に関しても鮮明になる。おそらく多くのひとは、小浜氏の議論に納得するだろうし、個人的にもだいたい同意できる議論を展開している。とくに、道徳と倫理の言葉についての小浜氏の見解には大いなる共感を覚えた。
……ですから、善悪の基準は、あらかじめ決めることができずそれ自体が、人間どうしの実践を通して変わっていく運動体なのだととらえることができます(身分制社会の道徳と近代社会の道徳とは、非常に違っています)。
 しかし、それにもかかわらず、われわれ人類には、全員にとって何か「善きもの」を見出していこうとする精神作用、あるいは自分が背負っている関係を少しでも「善い」ものにしようとする精神作用があることもまた確かです。この精神作用、というよりは、一種の問題産出能力とでも言ったほうが適切ですが、これは普遍的であって、当然、既成の道徳を疑う営みをも含みますから、私は、この精神作用を、道徳とは区別して、勝手に「倫理」と呼んでいます。……
 ふたりの知性の違いを象徴的に示していることとして、どこかで小浜氏が「スコラ的厳密さ」という用語を用いて、「生活感覚に基づかない」哲学理論をこき下ろしたことがあって、中島氏は、「スコラ哲学は人類のすばらしい知的遺産」であり、「その思考の厳密さに敬服」しているとし、用語法に見られるその紋切り型の「哲学史」理解を批判している。中島氏はかつて、安易に「社会」観を語る議論に対して、「普遍論争」の「実在論」を素朴に信じすぎていると論評したことがあったかと記憶するが、氏の学者として蓄積の一端をここでも知らされた思いだ。市井の思索者=評論家である小浜氏との違いを感じたところである。
 中島氏によれば、狭義の意味での哲学のプロに要求される条件は、第一に「哲学に必要不可欠な述語に関する厳密さを習得していること」で、第二に「哲学的センス」であるとしている。一見素人を締め出しているようだが、氏も編集委員の一人である『事典・哲学の木』(講談社)で、「われわれの最も基本的な世界了解の枠組みを、どこまで取り払えるか」にかかわる「哲学的センス」について、この項目担当の中島氏は述べている。
……一方で、みずから自覚していなくとも、哲学的センスあふれる人が市井に潜んでいる。彼らはカントやヘーゲルを読む修業こそしなかったが、先の問い(=存在の問い)を大切に育んでおり、その世界の見方、世界への態度が哲学的なのだ。他方で、知的職業についている者のほとんどは一滴の哲学的センスももち合わせていない。学問や芸術を愛し解しながら、哲学的センスだけは決定的に欠いている人は多い。哲学研究者の中にも哲学的センスが枯渇してしまった者が少なくない。……(p.732 )