中世としての現代

1)大窪一志氏の『「新しい中世」の始まりと日本』(花伝社)は、ニコライ・ベルジャーエフの「新しい中世」の用語を用いて、世界は近代の時代が終焉し、中世の時代が到来しつつあること、日本において近代思想史をどう整理、評価してこの世界史的動向に対処すべきであるかを論じている。既出論文を収録した書なので、重なるところも多いが、読むには理解がしやすく、知的スリルに富み、現代という時代を考えるための必読の一冊となっている。滝村隆一政治学的には、「共同体即国家」であるとともに「共同体内国家」としての現代国民国家の扱い方が構築主義的で軽すぎるところに、重大な疑念を感じるにしても、展望そのもは正鵠を射ているだろう。
 大窪氏が、現代を「新しい中世」状況の時代と見る根拠として、イギリスのヘドリー・ブルの著を引用して、現代世界に生じている五つの特徴を指摘している。1・諸国家の地域的統合(EUを典型にEFTA、東アジア共同体構想など)、2・各国家の国内統合不全(旧ユーゴ、チェコなどの分解、イギリスにおけるスコットランド独立の動きなど、国民国家の内部分裂)、3・私的団体による国際的暴力の復活(アルカイダや民間軍事請負会社=PMFなどの活動顕著)、4・国境横断的な組織の擡頭(多国籍企業グリーンピースなどのNGO)、5・世界的な技術の統一(ITの統一など)。
 普遍的な理性を分有している者としての個人を尊重する「量的個人主義」から、一人ひとりがもっているかけがえのない個性を尊重するという「質的個人主義」をかつて主張した、ジンメルの議論を敷衍しているところには共感を感じた。
『これ(ヨーロッパ中世社会)に対して、近代においては、国民国家が主権を具現した単位となって権力は一元化され、国家以外のさまざまな主体や部分社会は、国家の下に階層化されることになった。そこでは、構成員は量的個人として把握されていた。そして、すでに見たように、こうしたピラミッド状の階層をなす一元的構成が崩れてきたのが、いま起こっている「新しい中世」状況なのである。我々は、ふたたび、多元的・重層的な主体がさまざまに興ってきているのを目のあたりにしている。
 ここにおいて、我々は、もともとの中世状況を切り開いてきた質的個人にもどらなければならないのではないか。ハーバーマスは、いま見たように、量的個人に定位しつづけているし、ネグリとハートは、個人ではなく、共集合に基礎をおかなければならないという。だが、一人ひとりがもっているかけがえのない個性を自覚し、他者との類似によってではなく差異によってみずからを意識していく質的個人主義なくして、生政治の共集合はありえないのである。そうした質的個人から内発的な展開の方向をとってこそ、部分社会の自治が実現されていくのではないか。それが、「新しい中世」状況を切り開いていく出発点になるだろう。』
 経済のグローバル化の中で、新自由主義構造改革と日本精神による国内統合といういわば「ダブル・バインド(二重拘束)」の方向ではもはや「日本は没落するばかりである」。近代国民国家=国民経済をつくるのに苦労してきた中国およびインドのほうが、その桎梏を免れていることからかえって擡頭してきたとみることができる。しかし中国とインドの経済については、氏は評価を急ぎ過ぎで今後の「経過観察」が必要であろう。
 日本は古代中国の文化の吸収以来近代西洋文化も、独自の「文化フィルター」を通して濾過したものだけを取り込み定着させてきたという。しかし「スムーズに受け容れているように見えて、実は何も受け容れていない、ということがありうる」。かくしてみずからを文化変容させない近代化に合致する限りでの「日本的なるもの=伝統」を創設し、国民の統合に成功したということになる。「ところが、近代において発揮されたパフォーマンスの高さが忘れられず、それを復活しようともがいているのが現代日本国家主義なのである」。
 氏は、「近代的に構成された日本的なもの」ではない、コジューヴの「原日本的なもの=純粋なsunobisme(内容からまったく自立した形式を規範として生きている状態)」を、「脱近代的に構成」することが、「新しい中世」に適合していく方向ではないかと述べている。実感と具体性に乏しいが、傾聴に値する提言であろう。

2)ニコライ・ベルジャエフ(ベルジャーエフ)の「新しき中世」(宮崎信彦訳・創元文庫)は、白水社版『ベルジャーエフ著作集』には収録されておらず、創元社の創元文庫(昭和29年初版)の『現代の終末』にあることを、直接の面識はなかったがわが高校の同窓である、E氏(上智大学ベルジャーエフを研究した)から教示いただき、ネット古書店から入手した。ベルジャーエフについては、若きころ小説の『死霊』以外はほとんどの著作を読んでいた、埴谷雄高の著作によってその名と存在を知り、『現代における人間の運命』(野口啓祐訳・現代教養文庫社会思想社)は感動して読んだものである.

 近世史が中世に移行しつつある、それも「新しい中世」に向かって進んでいる、というのがこの著作の論旨である。認識であるとともに、祈りでも希望でもある。詩的言語を散りばめて論述されているので魅了される。むろん中世とは、ベルジャーエフにとって、キリスト教の宗教的権威が復活して、神の地位にみずからを置いてしまった人間がその本来の地位にもどるとき、という意味である。
『中世は暗黒の時ではなかったが、夜の時期ではあった。中世の霊魂は、《夜の霊魂》であり、後に近世史のこの退屈な日が現れたとき自己の内部にとじこもってしまった要素と精力とがそこに発揮されていた。』
 共産主義が誤った方法によって克服しようとしている近世史の《アトム主義》を、教会と共同的精神によって克服しようとするのが、新しい中世であるとされる。このあたりの議論は、現代においてその有効性に注目するべきであろう。
『これら職能的、経済的、精神的な生ける協同体が新しき中世の社会と国家となるであろう。充たされるべきことを求めて沸騰しているのは、民衆の精神的な物質的な必要であって、権力を求める彼等の野心ではない。権力はかつて多数者に属したことはなく、また決して属し得ない。権力が多数者に属するということは、権力の本性に合致するものでなく、それは階層的なものであり、またその構造も階層的である。これは未来においても同じであろう。』
 この論文が主張する「新しい中世」とは、願いであり選択であることは次の文章でわかる。
『われわれは中世の人間である。それがわれわれの運命、歴史の宿命だからというだけではなく、またわれわれがそれを願うからである。あなた、あなたはまだ現代の人間である。なぜならばあなたは選択することを拒むから。』 

「新しい中世」の始まりと日本―融解する近代と日本の再発見

「新しい中世」の始まりと日本―融解する近代と日本の再発見

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のブルー・エルフィン。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆