国家と宗教




 保坂俊司中央大学教授の『国家と宗教』(光文社新書)は、宗教を個人の内面にのみ関わってきた行動領域として限定するのではなく、統治機構としての国家および政治との関係に注目しながら、イスラームキリスト教、仏教、日本の神道について、その歴史と今後の課題を論じている。学問的には、比較文明論・比較宗教論の視点から考察している。知的刺激に富み、新書本ながら学ぶところが少なくない。
「心の平安」あるいは「平和」の意味の「サラーム」の原形「salma」を語源とする「イスラーム」の言葉は、イスラームの宗教的理念を象徴的に示すもので、「世界の平和と個々人の内面的な平安が獲得される状態」である「最終的な平和状態」は、「結果的に最後の審判の後に与えられる神に与えられる楽園での生活以外には存在しないことになる」。次善策としての「現世における平和と平安の状態の獲得が、真の課題となる」。「キリスト教的な思想パターン」をその基層部分にもつ近代ヨーロッパ文明をあたかも普遍的な文明とする、進化論的な文明観に対して、「イスラーム圏では根強い反感がある」。国家を超えた「ウンマイスラーム共同体」の再生を理想とするイスラーム復興運動が、「他の文明にとっては非常なる脅威となることは、今後の世界情勢を考える上で重要である」。
 しかし、「法」を現実の変化にどう対応させるかについて、キリスト教の場合、自然法を元にする実定法を、必要があれば、立法者である人間が、新たに法を制定できるとするのに対して、イスラームは「あくまでも神の立法権は犯さずに、解釈という形で、法を現状に合わせてゆく」という違いがあるにしても、キリスト教においても「法源」は啓典としての(書き換え不能の)『聖書』であり、根本的には同じセム的宗教(アブラハムの宗教)としての両宗教の「考え方はほぼ同一である」。
 ゴータマ・ブッダの思想も決して完全ではなく、その平等思想も世俗と区別された聖者の世界(僧伽)に限定されたいっさいの社会的差別の否定に限定され、現実社会の変革には結びつかなかった、との指摘はなるほどもっともである。現実の変革という点で一歩踏み込んだアショーカ王の仏教採用の背景には、当時の先進国キュロス大王以来のペルシア帝国の、他宗教への寛容性をもった宗教制度の影響があったのではないかとの推察は興味深い。さらに、インドにおける大乗仏教の興隆をクシャーン朝(1〜3世紀)の下でガンダーラ文明と呼ぶべき文明の融合が成立し、それを背景に捉えるべきであるとの提言も刺激的である。これまでの日本の(大乗)仏教研究は、あまりにも「インド純潔主義」に傾いていたのかもしれない。
『そのような視点から考えるならば、大乗仏教の発展は、非インド系信者とその思想に負うところが大きかった、としても不自然ではない。つまり、外来の民族がインドに定着するときの社会的な要請において、仏教、特に大乗仏教に特有な普遍性を彼らが求めた、という面もあったということである。だからこそ、大乗仏教バラモン教から見て辺境な地域で隆盛した、ということはいえるのではないだろうか。例えば、中国に仏教を伝えた初期の伝道僧の中にパルティア出身の僧(安世高)などがいたということもその証左となる。』
 クシャーン朝下において、他民族・他宗教の融合が実現したことと、大乗仏教の「空」思想の成立とは関連があるのではないかとの仮説も面白い。打ち破るべき「自我への執着」の「自我」を、「広く集団や社会において共有される主義主張、あるいは宗教と考えれば、宗教的な原理であった空の思想は、多種多様な思想の融合原理として有効であることがわかる」。
 第4章の「日本宗教と政治」のところも大いに学ぶところがある。天皇と仏教の関係については、「国粋主義的な国学による古代復古願望が優勢となるまで、伝統的には、天皇といえども一仏教徒にすぎない、という基本姿勢があった」。江戸後期の光格天皇の御世になって、それまでの「〜院」という仏教色の強い称号を排除し、ほぼ900年ぶりに天皇号を復興した。明治4年宮中の通称お黒戸(仏間)は撤去され、そこにあった仏壇や歴代天皇の位牌は最終的には泉湧寺に移されたのだそうだ。京都泉湧寺には、2006年9月に拝観している。そのときは、このこと不覚にも知らなかった。
『古代以来営々と引き継がれてきた天皇と仏教の関係は、明治維新を機に制度的には断絶した。加えて中世以来皇室や貴族を支えてきた門跡寺院制度も、衰退していった。その結果、生じた文化的、精神的な空隙は、いわゆる擬似キリスト教ともいうべき国家神道によって代替された。以来少なくとも制度的、表面的には天皇と仏教の関係は、途絶えたのである。』
 それにしても一般に復古神道と呼ばれている平田神道は、実は、神道と洋学(特にキリスト教的な思考)を融合したものだそうで、平田篤胤は、漢訳の『聖書』を読んだことが明らかになっているとの記述には、わが無知を思い知らされた。平田神道に見られる仏教を排除した排他的な国粋主義は、現代インドにおけるヒンドゥーナショナリズムにも通じるという件(くだり)には感心してしまった。慶応4年45万9千40ヵ寺あった全国の寺院数が、昭和40年では、約7万8千ヵ寺に減少している。明治初年に全国寺院の7〜8割を破損、あるいは破壊した廃仏毀釈運動の近代日本の宗教史的意味をこれまで考察してこなかったことは、研究者の怠慢であったろう。
※なお『事典・哲学の木』(講談社)で、「fundamentalism」の訳語としての「原理主義」の項では、ナショナリズムとの関係について次の通り記述している。(臼杵陽氏担当)
ナショナリズム原理主義との関係も両義的である。原理主義者はナショナリズムを近代的世俗主義として糾弾する。というのも、ナショナリストフランス革命以来、世俗的イデオロギーに基づいて国民国家を形成してきたために、宗教的原理主義者とは衝突せざるをえないからである。ところが、原理主義者は近代国民国家の枠内でしかその目的を達成できない。なぜなら、原理主義者が世俗的な国家の権力を奪取するためには国民国家という支配装置を神から与えられたものとして再定義せざるをえないからである。』(同書p.345)

国家と宗教 (光文社新書)

国家と宗教 (光文社新書)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の上ルリタマアザミ、下アサガオ。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆