哲学教育について

◆フランスの技術系リセの哲学教科書として採用されているという、ミシェル・オンフレ著の『〈反〉哲学教科書』(嶋崎正樹訳・NTT出版)の内容には、目を瞠ること多い。全3部構成で、第1部「人間とは何か」、第2部「いかに共存するか」、第3部「何を知ることができるのか」となっている。第2部の第4章「自由」の単元には、「なぜ君たちの学校は刑務所みたいに造られているのだろう?」の課題が設定されている。近代監獄の設計プランであるパノプティコン(一望展望装置)の構造をめぐって、この言葉を用いて監獄の論理の一般化を考えたジェルミー・ベンサム、およびこの論理が近代社会のあらゆる場面に浸透している事実を指摘したミシェル・フーコーのそれぞれの文章をテキストとしてとりあげ、「生徒監督や教育指導主事、指導係」が待機する学校という空間も、パノプティコンの原理で支配されているとまで記述してある。
 権威主義的に学生・生徒に対するのではなく、あくまでも現代の生存の現場を徹底的にかつ自由に考え抜き、論議しようという姿勢がよく出ている。どの課題設定にも、関連する原典からの長文の引用をテキストとして掲載している。まさに「思ひて學ばざれば則ち殆(あやふ)し」の精神が貫かれているのである。著者のミシェル・オンフレは、ノルマンディー地方のリセで20年間哲学を教えていた経歴をもっている。リセがフランスのいわば有力進学校だとしても、日本の有名進学高校に限ってもこのような自由で根源的な思考を促す教育は、成立し得ていないだろう。定着しないうちに、もう出番の機会さえ少なくなりつつある日本の「倫理」のテキストに、次のような記述が載せられる可能性など絶対にないであろう。
『いうまでもなく最悪なのは、役人面した哲学教師、公式の授業計画にばかりこだわる教師だ—実のところ、技術系のリセで教える哲学の内容別カリキュラムは、9つの概念で構成されている。(略)著者別カリキュラムには、最古とされるプラトンから、一番最近の故人とされるハイデガーまで、約30人の著作が定められている。なぜかというと、制度的には、優れた哲学者というのは死んでしまった哲学者のことだからだ……。学校に巣くうその種の禍の主は、古くて味気ない教科書からも、何年も前に用意した同じ講義ノートからも、一瞬たりとも離れることがなく、哲学史がしつらえてきた道を決して踏み外すことがない。君たちが教わるのは、必須もしくは伝統として選びだされた断片だ。』

<反>哲学教科書

<反>哲学教科書

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のクレマチス(鉄線=園芸上の俗称:本来は風車)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆