ジャン・コクトー作『おそるべき親たち』観劇


 昨日3/11(火)は、池袋の東京芸術劇場・シアターウェストで、ジャン・コクトー作、木内宏昌翻訳・台本、熊林弘高演出の『おそるべき親たち』を観劇。あらかじめわが所蔵の『コクトー名作集』(白水社)所収の同戯曲(鈴木力衛・大久保輝臣訳)を、第一幕だけ(全三幕)読んでおいた。この舞台は、主となるのはせり出した半円形の場で時おりゆっくりと回転していた。第一幕と二幕・三幕との間に休憩が入った。

 1930年代のパリでの物語。第一幕および第三幕がイヴォンヌの私室で、第二幕がマドレーヌの家である。登場人物は5人。息子ミシェル(満島真之介)に自分のことをソフィーと呼ばせるほど、ミシェルを溺愛しているイヴォンヌ(麻美れい)は、ミシェルに年上の恋人=マドレーヌ(中島朋子)ができたことを知って愕然とする。このマドレーヌはじつは夫ジョルジュ(中嶋しゅう)の愛人であったのだ。もともとはジョルジュと結婚するはずであったミシェルの伯母レオ(佐藤オリエ)の策略で、マドレーヌの家を四人で訪問し、二人を別れさせることに成功してしまう。若い二人は絶望する。
 いまでもジョルジュを愛するレオは、マドレーヌの純粋さに打たれ、若い二人に自分のような人生の失敗を経験させまいと思い、マドレーヌには第3の男がいるというのは嘘であることをミシェルに告げて、二人を結ばせる。ハッピーエンドと思いきや、毒薬を呑んだイヴォンヌが倒れる。この展開にレオは冷静である。ひょっとしてジョルジュを取り戻せるかもしれないからだろう。ついに息絶え横たわるイヴォンヌの体を抱き寄せ、接吻の嵐を浴びせたあと激情のミシェルは、マドレーヌの叫び声がするなかイヴォンヌの両脚を拡げ屍姦しようとするところで終わった。この終わり方は、原作戯曲にはない。「母さんなんているもんか。ソフィーは友だちだったんだ」と言ってミシェルはベッドに駆け寄り、「どうしても分かんないよ。どうしても」とベッドにくずおれるとあるだけである。台詞劇に慊りず終始身体性を重く見ている現代的演出である。第二幕、後方ミシェルとマドレーヌの脚の絡みだけを観せたところなどは面白かったが、あからさまな近親相姦のこの場面は、衝撃的ではあるが疑問である。台詞の交錯だけでも、それぞれの心の闇と小さな〈秩序〉の底の異様さは描出できるのではないだろうか。
 佐藤オリエの抑制された演技に、女優としての年輪を感じさせられた。質の高い舞台ではあった。
 なお、この演劇の翻訳・台本を担当した木内宏昌さんの翻訳・上演台本で、かつてtpt公演の『時間ト部屋』をすでに閉館した東京江東区ベニサン・ピットで2003年7月に観劇している。今回と中島朋子が重なっている。そのときのHP記載の観劇記を再録しておきたい。
◆忙中閑あり。7/11(金)の夜は、tpt企画公演の、ポート・シュトラウス作、トーマス・オリバー・ニーハウス演出の『時間ト部屋』を、江東区ベニサン・ピットで観劇。
 ポート・シュトラウスは、かつてペーター・シュタインの演出作品の翻案を手がけ、以降劇作家に転じたそうである。この『時間ト部屋』は、1989年の作品。ひたすら愛想よくかつ挑発的に笑いを投げかける、中島朋子演じるマリー・シュトイバーという女をめぐる、男たちとの出会いと別れのプロット。一貫した物語の構成にはなっていない。場所は、マンションのもともとはマリーの部屋と、オフィスの二つだけ。時間は、リアリズム的時間と関係なく、絶えず登場人物たちが記憶を確かめあおうとすることによって成立する時間であろう。わかりにくいが、興奮させられる。記憶の確認と挫折というスリリングな現場に立ち会えた感動なのであろうか。ひさしぶりに観る塩野谷正幸もあいかわらず存在感があって魅力的だった。
 マリーがギリシア悲劇のメディアの愛と復讐の情念を称揚した直後の場面では、彼女の官能を誘う身ぶりに、中が空虚な柱が、まるでギリシア悲劇のコロスのように、
 ひと年、ひと年、深く、深く。しあわせが増えてゆくにつれ。
 と、マリーに語り出し、
 わたしは柱。男で女。痛みと苦しみ。/探そうとした。声を見つけた。わたしは言葉のなか。地獄だった。
 と声をあげた。
 演出のトーマス・オリバー・ニーハウス氏 は、述べている。
 極度に人工化した、ときに狂ったように機械的に喋る人物たちを、下が虚ろになっている舞台の床が支えているのは、うわべが、薄っぺらい皮膜がわたしたちの文明を支えているのに似ています。シュトラウスはそのうわべの下で起こっている噴火を、情熱の溶岩を弄んでいるのです。とはいうものの、人物たちのパッションは常に知的に媒介されたものにとどまり、文明化された部分が野性的な部分にまさっています。だから彼らはこうまで悲喜劇的なのです。だからわたしたちは彼らを見て感じるのです。「これはわたしたちなのだ」と。
 たしかに「うわべの下で起こっている噴火、情熱の溶岩」が昨今、さまざまな悲喜劇を起こしていることを思い知らされている。メディアの情念など、もはやどこにも存在しないのである。それにしてもマリーの中島朋子の笑いは、現代資本主義そのもののような笑いとして、両国駅までの路、脳裏から消えなかった。(2003年7/12記)             
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の白梅。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆