サルトルは〈有効〉か

 フランス文学者の鹿島茂氏が、「『嘔吐』から『ペスト』の世界へ」と題して、『週刊ポスト』4/1号誌上に短いエッセイを載せていた。孤独な個の彷徨を描いたサルトルの『嘔吐』は、戦後日本の出発に適った作品であり、カミュの『ペスト』は、共生原理なくして生きられない東日本大震災の被災地にふさわしい作品であるとしている。あいかわらず着眼点卓抜で、面白い。どちらも昔愛読した小説である。
—3月11日以前の日本は、フランスの小説家サルトルの『嘔吐』のような世界だった。/人工的な環境に育ったブルジョワの主人公は、「木の根」を見て嘔吐する。それはつまり、自然や現実を見ようとしない、また見なくても許される戦後日本人の姿そのものだった。『嘔吐』のような戦後の日本で人々は家族から個人へとシフトしていったのだ。/同じくフランスの小説家であるカミュの、『ペスト』的な世界が訪れたのだ。作中でペスト患者とともに戦う医師は、「ペストはあなたにとってどういうものか」と問われ、こう答える。「際限なく続く敗北」だと。/いま被災地はそうした状況にある。敗北の連鎖と、それでも戦っていかなければいけない不条理。そうした世界において、人は再び個から家族へと回帰し始める。人とともに生きるという共生原理がなければ、生きていけないからだ。(同誌p.127)
 かつてHPで書いたreviewを再録し、サルトルのアンガジュマン(engagement)を、いまさら、平家落人か豊臣残党の反乱のような「反原発」の政治参加ではなく、「書くこと」において積極的に捉え返してみたい。
澤田直白百合女子大学教授の「サルトルのモラル論」の副題のついた『〈呼びかけ〉の経験』(人文書院)ようやく読了。行きつ戻りつ読み進めたので、1冊の書物を読みあげるにしてはかなりの時間がかかってしまった。
サルトルの倫理思想がアンガジュマンという言葉に集約される、ということには誰しも異論がなかろうが、この言葉がもっぱら政治的な負荷とともに捉えられてきたことは不幸だったように思う」との認識を前提にして、サルトルの文学と思想の現代的意味について丁寧に考察している。サッカーやラグビーのキックオフの意味をももつフランス語のengagementは、日本語の「社会参加」や「政治参加」などよりも、「もう少し切迫感というか、否応なしの雰囲気がある」言葉だそうである。多くの意味が数えられるが、サルトルの場合は、人間が自由に行動を選択して自己を世界に参加させ、それによって、選択した行動に対し責任を負い、自己を拘束することの意味である。
 デカルトの発見したコギトも、書かれることなしには普遍性をもち得なかった。社会=共同体から疎外された孤独な個人が、書くという行為を通して再び普遍性を獲得するために、文学という営為がある。書くことは、読むという行為における自己発見を促しながら読者の共同体を形成する。そのような〈贈与〉こそが、文学と倫理との結合を結果するはずである。澤田氏のサルトル論の凡その骨子である。文学をあまりに硬直したところで評価してしまう陥穽はあろう。「言語にとって美とはなにか」の問題も欠落しているだろう。しかし、〈書くという行為〉の独自性の普遍化可能性を希求すべきであることを、どうやらサルトルが求めたらしいことについては、作品を書くべき立場として大いに励まされ考えさせられた。
 また名作『嘔吐』が、公園のマロニエ体験に現われた〈存在の開示〉という哲学的発見をのみ描いた小説として読まれるべきではなく、ロビンソン・クルーソー的冒険が不可能になった時代における、新たな〈冒険〉の可能性を探索した作品であって、つまり、Robinson-Rollebon-Roquentin(ロビンソン・クルーソーと主人公のロカンタンが作品の舞台ブーヴィルに滞留して研究した冒険家ロルボン、そしてロカンタンの冒険つながり!)という冒険のトライアングルが仕組まれているのだとの指摘には興奮させられてしまった。
『私たちがいまなおサルトルを読みうるとすれば、それはこのような作家の呼びかけに対し、積極的に応え、それを読みかえてゆくという営為を通してであろう。作品=行為とはその意味で、作家が私たちに残した何かである以上に、作家その人の行いなのである。言いかえれば、私たちは文学作品に触れるとき、そこで作家の身振りをなぞりつつでなければ、それを理解することはできないであろう。そして、私たちがいま一度サルトルから学びうる何かとはまさに、アンガジュマンの姿勢、つまり〈読み〉かつ〈書く〉ということの根源にある自己と他者の了解であり、つねに自己と現実を変えようとする変革の決断であるように思われる。』(03年12/3記)  
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のカランコエ(Kalanchoe=紅弁慶)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆