『文学+|02|』(凡庸の会)を読む(2)

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 中沢忠之氏の「純文学再設定+」は、連載『脱(20世紀日本)文学史試論』の第2回とのことだが、単独論考として面白かった。前稿で論じていることで、「純文学を代表する私小説を批判する形で現れた」とする「純文学の枠組みを設定する三要素」は、「自意識批判」と「叙述形式の再編」と「社会性・大衆の導入」の三つである、としている。ここで注意したいのは、その純文学は大衆文学を「外部化」し、「物語」を委譲したことである。なるほど。中沢氏は、この関係を4象限マトリクスに還元し、タテ軸|私(自己)ー社会(大衆)、ヨコ軸|内容ー形式とする。

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第2象限:私の内面を語る私小説に対して、その内容をより徹底させるべきとの実存的立場
第1象限:私小説批判を小説の形式性(フィクション)において組織した「叙述」=新興芸術派
第3象限:内容(リアリズム)に立脚しながらも、私小説の内容の質を批判したプロレタリア文学。「主題の積極性」を評価するのもこの系列。
第4象限:形式的な枠組みによって「物語」を量産する大衆文学
 1980年代以降純文学においては、第2象限の「自意識批判」と第3象限の「政治・社会性」が後景化し、第1象限の「叙述」と第4象限の「物語」が伸張している。これは「内容」を描写するリアリズムが機能失調し、これら既成のリアリズムに対して、サブカルチャーの形式性から「アニメ・まんが的リアリズム」(大塚英志)や「ゲーム的リアリズム」(東浩紀)といったコンセプトが案出され、「内容」を描写するリアリズムの機能失調により、リアリズムの乗り越え・乗り換えが図られているということ。「私」の問題性や「政治・社会性」を問う純文学も消えてはいないが、苦戦を強いられている現状である。
「2000年代以降の純文学を考察する上で注目すべき指標となる作家は保坂和志高橋源一郎だろう」とし、二人とも「物語」には消極的な関わりしかもたない点で一致しているが、高橋源一郎の場合は、「自意識批判」と「政治・社会性」もカバーするのに対し、保坂和志の場合は、「自意識批判」も「政治・社会性」も締め出し、「叙述」の純粋培養を徹底させている。どちらの作品も読んでいないので、ほう、そうか、との感想のみである。

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