作家・比較文学者小谷野敦氏の『純文学とは何か』(中公新書ラクレ)は、文化現象としての純文学をめぐって、言語による物語表現内での線引き、他の表現ジャンルとの異同および影響関係を主軸に縦横に論じている。誰彼が「〜と言っている」「〜と批判している」という紹介形式が多いのは、結果的にポリフォニックな小説世界のような構成となっていて、表題を一つの命題として断言的に論じるスタイルよりもふさわしかったであろう。そもそもの「花の美しさ」の解明を期待した読者には、東西の歴史に咲いた「美しい花」の羅列のみで物足りない感想を抱いたかもしれない。
大江健三郎頌の主張は見当たらず、世間的には長篇『暗夜行路』が代表作とされる志賀直哉について、作家とこの作品をたしかこき下ろしていた著者が、今回短篇「焚火」を評価しているところが何回かあって愉快であった。
なお「テレビで20パーセントの視聴率があれば、2000万人が観ていることになる」(p.40)と書いているのは、誤解である。テレビ視聴率は世帯視聴率であって、何人の視聴者が当該番組をリアルタイムで視聴しているかは示していない。もっとも、ベストセラー本の読者数と比べての議論を無効とすることではない。さらに丸山眞男の著作「忠誠と反逆」を「中世と反逆」と誤記(p.206)しているのは、魯魚の誤りというよりPCの打ちミス。
◯「純文学」という語は北村透谷が広い意味での「文学」つまり歴史なども含むものと区別して、詩や小説をさして使ったのが最初である。ところがそのことにとらわれて、「純文学」という語だけ穿鑿する学者もいる。そんなことを言ったら日本語である以上、漢語はともかくそれ以外に対応する語はないに決まっているのだからおかしな話である。(p.7)
◯海外(西洋)に純文学とその他の区別がないというのは端的に誤解である。国によって違うのだが、英米では推理小説や、アクション小説というのは歴然とあって、日本でも多く翻訳されており、これは「文学」とは違うものとされている。(p.21)
◯「通俗小説」は、英語ではポピュラー・ノベルとでも言えばいいが、「純文学」は、ぴったりした語がない。一番近いのはフランス語の「ベル・レットル」であろう。「ベル」は美しい、「レットル」は「文」である。文学部は英語でファカルティー・オブ・レターと言うが、この「レター」はフランス語のレットルから来ており、文章で書かれたものを扱うという意味である。だからレットルは、歴史文書なども含み、その中で、美を目ざしたもの、詩、小説、文学的随筆などが「ベル・レットル」である。英語でも、「純文学」をどうしても言いたい時は「ベル・レットル」を使い、「ベル・レトリスティック」などと形容詞にする。(p.22)
◯どうやら、実在の人物を描いた歴史小説の数は日本が圧倒的に多く、そのことは、海外には「純・通俗」の区別がないという俗説が形成される一因をなしていると言えるだろう。海外では、通俗小説は、推理小説とその変形の冒険小説、ロマンスが一般的で、歴史・時代小説があまりないのである。通俗歴史小説としては、オルツィ男爵夫人の『紅はこべ』などがある。そしてこの歴史小説や大河ドラマのおかげで、おそらく日本人は世界的に見ても、歴史に詳しい国民だと思う。(p.95)
◯概して「純」か「通俗」かという議論を、作家ごとに行うのは不毛で、作品ごとに考えるべきである。(p.115)
◯英国人は階級意識が強く、かつまたシニカルで意地悪であって、ロシヤやフランスのように、小説でまじめに人生を考えたりすることをバカにする傾向があるのではないか。イヴリン・ウォーの『ブライズヘッドふたたび』などは、過去を懐かしんで書かれているのではなく、過去を懐かしむ人間をからかっているのである。(p.137)
◯なぜ私小説を書くのかといえば、私の場合でいうと、黙っていられないからである。私の場合は「真実狂」のところがあって、仮に私が裁判員に選ばれても、守秘義務を守れないから辞退するし、辞退が認められなければ、言論の自由の侵害だとして提訴するつもりである。(p.193)
『風の谷のナウシカ』(1984)は、むしろ定型をうまく使った例で、これは複式夢幻能の形式をとっている。ユバはワキで、旅の僧である。これが風の谷へ到着して、村の娘(といっても王女だが、村娘に見える)ナウシカに出会う。この娘が、実は特殊な能力をもつ娘で、後半では中空にその崇高な姿を見せる。「江口」の、象に乗った普賢菩薩さながらである。(p.27)
「物語には、だいたい定型というものがあって、その定型があちこちで使われると、通俗的なものになりやすい」で始まる文脈での考察である。面白い。物語の形式としては、幸田露伴の『對髑髏』と共通していることになる。
http://simmel20.hatenablog.com/entry/20120127/1327667652(「髑髏について:2012年1/27 」)
『風の谷のナウシカ』については、経済学者の野口悠紀雄氏 の考察が鋭い。かつてブログ記載のエッセイ「城址と廃墟」の一部再録。
◆城址を探索する志向と、昨今日本の廃墟憧憬は重なるのであろうか。経済学者の野口悠紀雄氏は、「栄光の時代は過去にあった」との認識を背景に、単に古いだけのものではない「その建造の技術と時代的背景が失われたために再現不能という諦観」が、廃墟憧憬にとって重要であるとしている(「『風の谷のナウシカ』に関する主観的一考察」『「超」整理日誌』所収)。氏は同論考で、『ナウシカ』に漂う「ルネッサンス以降のヨーロッパでは、ごく普通の発想」であった廃墟憧憬が日本でも受け入れられようになってきたのではないかと述べている。
http://simmel20.hatenablog.com/entry/20160303/1456975367(「城址と廃墟:2016年3/3 」)