「尊厳に満ちた者」

 ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りもの』(上村忠男・廣石正和訳、月曜社)は、人間の尊厳について述べている。アウシュヴィッツ収容所の支配者であったSS(ナチス親衛隊)も、ガス室と火葬場の運営を任された収容者グループの特別労働班も、死にいく者たちもみな尊厳を失っていたが、ここで驚愕をもって知らされるのは、生き残ったイタリアの作家・化学者プリモ・レーヴィ(87年自殺)などが、その存在を証言した、数は莫大で「収容所の中枢をなしていた」「回教徒=der Muselmann」と呼ばれた人たちの、その〈生存〉のありようであろう。しかしいまここではまるで違ったことを想う。
 そもそも、人間の「尊厳」の概念はもともと公務を担当する階級や団体を指す「dignitas」(ラテン語)から来たものであり、語義の拡張によって公務そのものを意味するようになったように、法律に起源をもっている。その地位に釣り合ったふるまいとしての「尊厳」が、道徳によって精神化されたのである。
『そして、法律が擬制的な人格の地位をその担い手から解放したように、道徳は—逆の鏡面的なプロセスをとおして—個人のふるまいを職務の占有から解放する。いまや、公的な職務に就いてなくとも、どこをどう見てもそれに就いているかのようにふるまう者こそは、尊厳に満ちた者なのである。』
 アガンベンの「尊厳に満ちた者」たちが、被災地で無数に活動しているらしい、TV映像&ネット情報を知らされて感動するのみである。こちらは、せいぜいわずかな義捐金を払うことしかしていない。
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のフォンシオン(Vonsion=八重咲き黄水仙)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆