危険との付き合い

 午前中近くの眼科医院にて定期眼底検査を受診.白内障が進行中であるが、幸い網膜など眼底の異状はないとの診断であった。しかし散瞳のための点眼で、夕方まで視界がぼやけ読書・PCは無理であった.強度の近視故眼のリスク回避のためには、しかたなし。

 本日の「asahi.com」によれば、『「リスク社会」などのユニークな分析概念を提示したことで知られるドイツの社会学ウルリッヒ・ベック氏(66)が、初めて来日した。1986年、チェルノブイリ事故がもたらした衝撃下で世界的なリスクの登場に警鐘を鳴らしてから、間もなく四半世紀。日本に降り立った世界的研究者は、アジアをも巻き込む「個人化」の深化に注意を促した』とのことである。大著『危険社会』は、ついに完読せず、どこかに積まれてしまったままである.この書について、わがHP05年4月の記事に記載してあるので、ここに再録しておきたい.
  http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201011110291.html

◆ウルリヒ・ベックミュンヘン大学教授著、東廉・伊藤美登里訳『危険社会—新しい近代への道』(法政大学出版会刊・叢書ウニベルシタス)は、近代文明の展開そのものがもたらしつつある危険=Risiko(もしくはGefahr)について分析考察している。訳書で460頁の大冊で、極上のたる酒を一気飲みなどむろん不可能で、第1部をちびりちびり味わっているところである。

『危険はわれわれの目には全く認められない。とはいえ、このような規範的な見方によって初めて、危険の危険たるゆえんが明らかになるのである。危険は、計算や実験の結果によって明らかになるのではない。いかに技術的な体裁をとっても、問題は、遅かれ早かれ、それを受け入れるか否かということになる。そして、どのように生きたいのか、という古くて新しいテーマが浮上してくる。つまりわれわれが守らなくてはならない人間のうちの人間的なるものとは何か、自然のうちの自然なるものとは何なのかという問題といってもよい。「破局的事件」の可能性をいろいろ語るということは、この種の近代化の進展を望まないという規範的な判断を、極端な形で述べることに他ならない。』(同書)

 危険が及ぶ可能性および、危険をある程度回避できる条件や、情報収集能力を含めた能力について、富の分配をめぐる階級格差を新しいレベルで強化・固定することを指摘しているところは、鋭く、二極化が進行中とされる現代日本についてもあてはまるのだろう。しかし、著者によれば、危険の分配の論理の核心はこのことではなく、水や空気の汚染などの危険は、もはや個人の努力や工夫で対処できる可能性は少ないのであり、階層を隔てる障壁を越えて危険が浸透しているということなのである。

『危険はそれが拡大する過程で社会的なブーメラン効果を発生させる。つまり、危険を前にして、富める者も力を持つ者も安全ではない。前に述べた「潜在的副作用」は、それ自体が生じた所にも反作用を及ぼす。近代化の舞台の登場人物—危険を引き起こし、その危険から利益を得ている人物たちーでさえ、極めて具体的な形で危険の渦に激しく巻き込まれてしまう。この現象はさまざまな形をとって起こり得る。』(同書)(05年4/24記)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の紫紺野牡丹(シコンノボタン)。小川匡夫氏(全日写連)撮影.⦆