ナショナリズムのグローバル化

 PC内および外HDの整理整頓作業をしていたところ、ちょうど10年前の2002年7/24の日付の「読書ノート」が見つかり、読むと、論点となっている問題が変わっていないことに〈感動〉した。考えるたたき台の一つになり得るだろう。時事的に合わない部分を削除し、ここに残そう。

 オーストラリア国立大学教授(2002年当時)Tessa Morris-Suzuki(テッサ・モーリス=スズキ)さんの『批判的想像力のためにーグローバル化時代の日本』(平凡社)は、エスニシティナショナリズム、民主主義、アイデンティティ、そして文化をどう捉えるべきかなどについて、現代世界が共通に課せられている問題として追求していて、広い視野が得られると同時に、深く考えさせる論考である。
 ※なお、東日本大震災で生じた東北の震災瓦礫の焼却をいち早く受け入れた、石原慎太郎都知事の決断については、個人的に高く評価していることを記しておく。
ナショナリズムについて 例えば石原慎太郎東京都知事が「不法滞在の三国人による凶悪犯罪の増加および、自衛隊の治安対策が必要になるかも知れない騒擾事件の危険性」を訴えた発言は、それへの反発は三国人という言葉にのみこだわった「言葉狩り」にすぎないとして、意外とその事実認識と内容は多くの支持を得ている。なるほど石原演説の直前に発表された警察庁の数字では、「外国人犯罪の上昇」を裏づけているようだが、統計には作為が見られる。外国人犯罪が相対的に低かった1980年(9647件)と比べて、1998年(10248件)の数字を出しているが、外国人の数が2倍に増加していることを考慮しなくても、圧倒的に増えたというほどの数字ではない。しかも、検挙された外国人が以前に比べ複数の犯罪に絡み、必ずしも人数が増加しているとは限らない。統計の慎重な解読が求められるべきであろう。問題なのは、グローバル化の動向や打開の展望が見えない経済の停滞とともに生じている漠然とした不安感を、こうした「再梱包」されて売りに出された「古い人種主義的差別的偏見」が、虚構の共同性を捏造することによって〈治癒〉してしまうことだろう。オーストラリアでも、混乱と不安を、アボリジニやアジア人に対する異物視によって解消しようとたくらんだハンソニズムの潮流がいっとき勢力となったことと、Tessa Morris-Suzuki(テッサ・モーリス=スズキ)さんはダブらせていて、グローバル化に対して発生しているナショナリズム自体がグローバル化しているのだという。
多文化主義について 一方で石原都知事は、開かれた移民政策を提唱しているが、これも、外国人を雇用して病人や高齢者のケアをさせるという経済的意義を認めてのことで、「彼ら彼女らを、常時周縁化し、弱い立場に置き、低賃金の状態におしとどめようとするもの」で、オーストラリアで、アボリジニが政府によって一定の支援を受けながらも、その家系コネクション間の度重なる移動や、時間の多くを会話・友情・交際にあてる生活習慣と能力は、近代の経済と相いれず、国家的規模で奨励されている美術を創造する、彼らの生活は否定されてしまうことと重なることなのである。しかしながら、「国民的アイデンティティとは、不変に固定されたもので建国の神話と血の結合によって永遠に縛られたものである、とする思想からのきわめて重大な精神的解放を、多文化主義の概念はわれわれにもたらしたのである。」
エスニシティについて 「あなたのnationとは、あなたの墓がある場所だ」というような決定論的客観主義にも、「経済的利益の最大化のために着脱自由なものとして捉える」単純な主観主義にも組みせず、民族的アイデンティティを、ブルデューのように「特定の合理的文脈の中でのみ象徴的にコントロールされる」われわれの文化資源(cultural resources)から抽出されたものと考えるべきなのである。W杯トルコ代表の選手にはウミット・ダバラのようにドイツで育ち、ドイツでサッカーを学んだ選手が活躍していたが、かれらの幼少時から体得した「文化資源」が、トルコ人としての民族的アイデンティティを選ばせるはずである。
4民主主義について 韓国の金大中大統領は、民主主義の理想は普遍的正当性をもち、孟子の「天命」など東アジアの土着の伝統の中にもすでに民主主義への衝動は存在したと考えている。しかし、民主主義(デモクラシー)とは、啓蒙思想に起源をもち、19世紀の議会制度や公民権などの制度を包摂して確立した西洋の歴史の産物であり、近代国民国家の出現と時を同じくして生まれ、多くはナショナリズムと連結して定着したことを忘れてはならない。B.アンダーソンの『想像の共同体』など構築主義の立場が明らかにしているように、近代の国民国家という共同体は、交易と移民、コミュニケーションの世界的拡散のさなかに、国際基準のフォーマットを踏まえて造られたものなのである。現代のデモクラシーはしたがって、「1人1票」や富の再分配にかかわるだけでとどまることはできない。「文化資源」をどう共通のものとして、つまり「文化資本」として蓄積できるかということが問われているのである。
5文化について これまで「文化」という言葉は、人類学者たちがフィールドワークできる限りの小さな共同体の、他とは区別された、全体的に統合された生活様式という理解が支配的であったが、どんな小さな共同体においても、複合する連携をもち、かつネットワークの交換を必然的に行なうものである。この定義はもはや、「20世紀後半の社会の巨大な複合性を視野に入れれば、ほとんど意味をなさないものだ。」
 

批判的想像力のために―グローバル化時代の日本

批判的想像力のために―グローバル化時代の日本

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、ピラカンサス(Pyracantha)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆