「季節」の変容

「風の音にぞおどろかれぬる」などと呟いている時節となったが、この猛暑は終わりそうもなく、もはや夏休みは終了しても、夏という季節は9月いっぱいまでつづいていると考えたほうがよろしいだろう.
 栗田勇氏は、「日本人は、天然自然のリズムのなかで生きていると確信するとき、はじめて生きている」とし、めりはりの「間」をつくるべくととのえたものである「年中行事」が、日本人の生活の流れとなっている、と述べている(『日本文化のキーワード』詳伝社新書)。そしてさらに、
連歌俳諧などには、必ず季節にかかわる言葉が必要とされている.いわゆる季語である。そこで歳時記というものも生まれる.森羅万象を詩句にうたうとき、すべて自然のリズムのなかに位置づけていることになる.それを合言葉にしなければ文学が成り立たない.文学が成り立たないということは、現実が成り立たない.
 人間の生活はすべてが季節と引っ掛からないとありえないのだというのは、世界でも日本人だけの文化である.」(同書)

 しかし自然の客観的条件が大きく変貌しているとき、伝統的な感性の共同性を信頼し過ぎてもならないだろう.むろん歳時記は常に更新されて今日に至っているのだろうが、歳時記そのものが必要でない表現の事態も考えるべきだろう.

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のナミアゲハサフィニアの花。小川匡夫氏(全日写連)撮影.⦆