デザインにおける独創性とは


 栗田勇氏のエッセイ「デザインにおける独創性とは何か」(『栗田勇著作集2:都市の文明・デザインの思想』新書館)の冒頭に、かつて「ガン制圧切手をめぐって大騒ぎ」があったことが書かれている。当時のメディアが競って、「米人図案とそっくり、盗作か」とか、「ガン切手とニセ作品」などと、麗々しく、「大事件として報告して」いたそうである。栗田勇氏は、この件に関しては、「単に独創とか盗作といって騒ぐには、話が大袈裟すぎる。しかし、デザインと独創性についての根本的な問題なら、あまりにも的はずれで、しかも小さいといわねばなるまい」と批評している。栗田氏によれば、個人藝術にあっては個人の主体を通じて表現するのであり、そしてもっと正確には、「かりに品物や図形をうつし描いたとしても、それはむしろ、真の表現対象ではなく、本当に表現するのは個人を通じてではなく、個人そのものだといったほうがいい」としている。だから偽作、盗作は「蛇蝎のようにきらわれる」ことになる。独創性の根拠となる自己あるいは自己の意識が明確になった(西洋)近代以後、個性ということに最大の価値をおく独創性という観念が定着したのであって、絶対的なものではない。例えば中世カトリックのカテドラールには、作者個人の署名がないどころか、200年にもわたって営々と築かれてきたものがある。デザイナーは社会的評価を求めて藝術家と肩を並べたがる傾向があるとしても、デザインは(個人)藝術と同じではない。
……デザインを、個人芸術のように考える、古めかしい独創礼賛主義、署名入りに執着するデザイナーや、それをありがたがる発注者の考え方の古さをまず排除しておく必要がある(もっとも、逆に大衆社会だからこそ、署名がコマーシャルな効果を持つ場合もある。だが、それは、かつて、独創的な天才が個性の表現を確認する意味でした署名とは異なる。それは、社会の求めているスターが、タレント(!)が、人気を保証するための品質保証の署名なのだ)。
デザインが芸術である必要はない。いやそうであってはならない。デザインは、第二次大戦後生まれ育った、更に巨大で社会的な表現の分野なのである。
だから、もともと、署名や個人の制作ということがおかしい。むしろ社会のあらゆる組織が名づけしている。だから、合作も何々工房というように許される(かりにピカソ工房がピカソの絵を生産してみよ、いっぺんにピカソの絵の値打ちはさがるであろう)。
また、パターンの模倣は盗作と呼ばれるべきではない。なぜなら、デザインにとって、人間社会が生み出した、印刷インクからすべての形態は、ことごとく素材なのである。写真家が絵をうつしたとき、そのカメラマンを、絵の盗作者と避難するものはいるまい。……(pp.51~52)
 しかし、すでに作者名のはっきりしたデザイン作品を素材としてデザインを創造するには、より高次の編集能力とアイデアがなければならないだろう。
⦅写真は、東京台東区下町民家のナミアゲハデュランタタカラヅカ。小川匡夫氏(全日写連)撮影。コンパクトデジカメ使用。⦆