今村夏子の「とんこつQ&A」は面白い

 今村夏子の『とんこつQ&A』(講談社)所収の小説「とんこつQ&A」は、社会学的には演技的相互行為に基づく人間関係の実相を描いた作品であるが、登場人物が生き生きとして描写され無駄がなく、人間性の本質を浮き彫りにした文学作品である。じつは当代随一の小説読み、比較文学者・作家の小谷野敦氏がXで『最近の純文学小説で良かったのは今村夏子の「とんこつQ&A」』と記していたので、即買って読んだ次第。
 小説の舞台はテーブル席3台とカウンターの狭い中華料理店「とんこつ」(店名は本来は敦煌。とんこう→とんこつ)。妻を亡くした大将と小学生の息子「ぼっちゃん」の二人が切り盛りするこの店に、アルバイト店員募集の貼り紙につられて、これに応募した主人公の女性、今川、そして後から店員となった、大将の妻と同じ大阪出身の丘崎さん、この4人が主要な登場人物。主人公が何となく引き戸を開けると、
……お客さんは一人もいなかった。男の子がふと手を止めてこちらを向いた。同時に、頭に手ぬぐいを巻いた色黒の中年男性が厨房からひょこっと顔をのぞかせた。二人は声を揃えて言った。╱ “らっしゃい” ……
 これで、もう読者は店に引き込まれた主人公のように、日常的なのに何かシュールな作品世界に入り込んでしまうのである。
 主人公の今川は、医学的意味の「コミュニケーション障害」で、まず相手に伝わるように言葉を発声することじたいが困難で、状況に応じて適した言葉を使って相手と会話するなどまったくできないのであった。そこで、必要な言葉のメモを書いて対応するようにした。客が入ってくれば、「いらっしゃいませ」と書いたメモを読む。食べ終わって帰る客には「ありがとうございました」と。こうしてうまく接客ができるようになると、複雑な状況に対応するため、メモより一段と進んで「とんこつQ&A」という表紙をつけたノートを作成、客のいろいろな質問にもすぐに応じられるようにしたのだ。メモを見ないでも、言葉が出るようになったころ、丘崎さんという「鈍くさい」新人店員が入って来た。この女は言葉も出ないどころか、自分からは決して動こうとしない。命じられればそれだけの作業はするといった人物。
 大将と「ぼっちゃん」に切望されて、主人公は「とんこつQ&A」の大阪弁のバージョンを作成する。二人による修正で完成。これを丘崎さんに使用させると、ちゃんと応対できるようになる。ところが進展して、遊び気分で大将と「ぼっちゃん」が丘崎さんに亡くなった「ぼっちゃん」の母親のセリフを言わせると、何となく三人の家族の生活が仮想現実として蘇る。初めは嫉妬と憎悪で丘崎さんを疎ましく思っていた主人公も彼女を「おかみさん」として存在を認め、リアルと仮想現実が入り交じった生活が続き、登校拒否だった小学生の「ぼっちゃん」は、いま高校生になって店の多くの仕事を担当していた。
 顧みれば、人はだれでも、心のどこかで「とんこつQ&A」を用意していて、状況と相手に応じて言葉を発しているのかもしれない。そう知ると、意外と怖いお話であることがわかる。面白く、佳い作品。