安藤宏『「私」をつくる・近代小説の試み』を読む

 安藤宏東京大学教授の『「私」をつくる・近代小説の試み』(岩波新書)を読んだ。作者と語り手、そして登場人物(主人公)の関係について、文学としての小説をめぐる旧くして新しい問題を、近代日本の小説史固有の課題を通史的に取り上げつつ考察している。いわゆる日本の「私小説」に限定した議論ではなく、主人公の「私」と作者である「私」との間で、描き手=語り手である「私」が、あたかも人形浄瑠璃の黒子の如くいかに巧みに小説世界を〈構築〉したのか、名作とされる作品からの豊富な引用を紹介しつつ解明している。描かれていないところまで深読みし想像できれば、そこに「豊穣な」世界が成立しているとの作品についての論評は、科学論文とは自ずから異なる客観性からの逸脱であろう。決して平易な解説などというレベルの小説論ではないのである。全8章から構成されている。
第一章:漢文脈も和文脈も捨てて、明治の初頭に、卑俗なものとされていた言文一致体で小説を書くことは、大きな冒険であった。……なまじ〈話すように書く〉などという試みを自覚的に始めてしまったために、近代の小説は「話しているのは誰なのか」という問題、つまり作中世界を統括する主体がどのような立場と資格で語るべきなのか、という大きな課題に突き当たることになってしまったのである。……(p.11)小説の中の「私」は、潜在する「描く私」によってバイアスがかけられ、自在に変形された「私」であることに注意したい。
第二章:たとえば、ジオラマを眺めるときに、上から立って全体を一望してみることもできるし、かがみ込んである人形の視点で線路や駅舎を見ることもできる。小説の文末表現では、前者の場合が「〜た」に表わされる統括的な、三人称的な視点で、後者の場合が、動詞の言い切りの形に代表される、現場の一人称的な視点であるといえる。……三人称的な視点と一人称的な視点と—おそらくはこの両者をいかに組み合わせるかに言文一致体の〈小説づくり〉のポイントがあった。そしてこの場合、要点の一つは文末詞の「〜た」をいかにうまく使いこなすか、にあると言ってよい。……(p.30)一見三人称の形をとっている場合でも、表現の技巧として語り手の「私」が隠れていることがある。この「〜た」に象徴される「三人称のよそおい」によって、日本の近代小説は、読者に隠された「もう一つの物語」を構想させる、たいへん魅力ある表現の手立てを手にすることが可能となった。
第三章:読者である「あなた」をどうつくりだす(つくらない)のか、「小説づくり」にとっても重要である。……顔の見えない話し言葉から明確な顔立ちをした「ひとりごと」へ。「ひとりごと」から読者に直接訴えかける「語り」の復権へ。近代の言文一致体は大枠において、この三つのサイクルを循環する歴史でもあった。もちろんこれは時期的に明確に区分できるプロセスをたどった、ということではないし、ましてやこの順に〈進歩〉した、ということでもない。これは「言」と「文」を一致させようとした結果生じる、いわば宿命的なサイクルのようなもので、三つの要素をいかに意識してみずからの位置取りを決めていくかに作者の創意工夫がかけられているわけである。……(p.68)
第四章:一人称小説は、伝聞モード(例・ホームズ物語のワトソン)と告白モード(例・太宰治人間失格』の手記)に分けられ、告白モードはさらに、告白・回想モード(日記形式)と告白・対話モード(書簡形式)に分けられる。一人称小説の効能は、一には「当事者のリアリティ」、二には、告白する「私」の「ウソつき度」が高くなるほどにその言説が読者によって相対化されること、そして、三に、「語る私」と「語られる私」のズレや対比が、暗黙のうちに物語に対する「もう一つの物語」を生み出し、当初見えなかったさまざまな問題が浮き彫りにされてくるパラドックスである。
第五章:「小説」はメタ・レベルの言表を自在に取り入れられる表現のジャンルであること。……日本の近代小説は、「小説を書く私について書く」葛藤を通し、さまざまな表現領域を切り開いてきた歴史でもあった。「この小説」について語り始めた瞬間に「もう一つの物語」が並行して発信されていくこうした現象を、とりあえずここで〈メタ・レベルの法則〉と名づけておくことにしよう。……(p.110)……「小説家」を主人公にする、というやり方は、「草子地(そうしじ)」以来の散文芸術の伝統(※語り手と語られる物語との関係それ自体が表白されていく伝統)を引き継ぎつつも、「写実主義」というあらたな要請のもとに編み出された、近代固有の表現形態でもあったわけである。……(p.116)
第六章:写実的なリアリズムに沿って書かれる「私小説」は、怪異や幻想の世界を扱うのには不向きのようであるが、近代の「私小説」の佳作と評価される作品のかなりの部分に、「非現実世界への予覚をみずからの死生観を通して描いたもの」が見られるのである。……おそらく近代小説を読み解く勘所の一つは、夢や幻想を一人称の「告白・回想モード」を通して—この一見およそ不向きに見える方法を通して—実現していく、その創意と工夫にあったとみてよいだろう。……(p.133)……(後期の芥川龍之介は)むしろ現実を題材に、写実的な文体で〈怪異〉を描いてこそ「小説」である、というこだわりを持ち始めた形跡があり、現代小説を試みたり、自分を題材にした小説を書き始めたり、あるいはまた一人称を用いてみたりと、さまざまな試行錯誤を続けていくのである。……(p.134)
第七章:日本文学が古来からもっていた伝承世界構築の歴史を継承して、近代の小説家たちは言文一致体に共同性を付与するための独自の工夫を重ねてきた。……日常の個人を扱った「ひとりごと」文体においても、このように(※志賀直哉『城の崎にて』)「小説ができるまでの物語」を併走させる企ては実にしばしば試みられていたわけで、その背後には読者を共に小説にまつわる伝承世界に誘い込もうとする、したたかな戦術が秘められていたのである。……(p.160)
第八章:いわゆる「私小説」とは、定義不可能な概念で、近年の研究では、ジャンルではなく、モード(読書慣習)であったのではないか、と考えられるようになってきている。つまり「私小説」なるものがあるのではなく、主人公に作者その人を重ね合わせて読もうとする読者の慣習(モード)こそが「私小説」をつくっていくのだ、という発想である。「私小説」をめぐる問題は、作家論、表現論的視点、文化論的視点のすべてを視野に入れた上で、作者と読者がそこでどのような綱引きを演じていたのかを、表現に潜在する「私」の演技性、という観点から明らかにしていく〈複眼〉が不可欠なのである。
 次の文章は、この小説論全体の通奏低音としての洞察だろう。
……「描く私」のみぶりはいわばそれ自体が一個のパフォーマンスなのであって、「描かれる私」をつくる主体として読者にいかに「私」を演出していくかという、その演技の舞台こそが小説空間なのである。……(p.74)
 『いま、サルトル』(思潮社・1991年7月刊)所収の論文、久米博氏の論稿「書くことと読むことのあいだ」について、昨年わがブログで紹介している。思い起こしたことである。

◆それはそれとして、学問としての文学研究者には自明のことであろうが、語り手もしくは主人公を媒介とする作者と読者との関係をめぐるサルトルの文学論について論評した、久米博氏の論稿「書くことと読むことのあいだ」は面白かった。サルトルが、モーリヤックの小説作品で、主人公の三人称による客観描写のなかに「用心深い絶望の女」という作者の「批判」が下され、それに応じて読者もそのように下すのは、作者の越権行為であるとしている点などを批判的に検討している。サルトルは、「作中人物のもつ自由は、また読者の自由でもある。作中人物の自由を尊重するなら、作者は人物の内心にまで入りこんで描くようなことをするべきではない」と主張しているのだ。

……また「用心深い絶望の女」というように作者が人物の内部に入りこんだり、批判したりする権利も語り手の設定の仕方、また語り手に全知の視点を与えるかの問題に帰する。たとえばF・K・シュタンツェルは視点という角度から、物語状況を次の三つに分類する。第一は、語り手が特権的な視点をおしつける「語り手支配の物語状況」、第二は、作中の特定の人物の視点から他の人物を見る「人物支配の物語状況」、第三は、一人称で語る人物と一体化し、他の人物と同じ世界に生きる「私支配の物語状況」である。モーリヤックの『夜の終り』は、さしずめ第一の物語状況に属しよう。サルトルは、「小説家は人物の目撃者となるか、または共犯者となるかはできようが、けっして同時にその両者にはなれない」のは小説の掟だと言うが、はたしてそうだろうか。むしろサルトルのほうが狭い固定観念にとらわれているのではないか。……(同書p.60)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20150415/1429077350(「サルトル没後35年:2015年4/15」)
 実作上の観点からでは、比較文学研究者にして作家の小谷野敦氏の『私小説のすすめ』(平凡社新書)のほうが励ましになるのではないか。