ルソーの『ルソー、ジャン=ジャックを裁く—対話』あるいは声の多数性について(再掲)

                (現代思潮社版上下2巻)
 水林章上智大学教授の『公衆の誕生、文学の出現—ルソー的経験と現代』(みすず書房)は、18世紀フランスにおける公衆の誕生の文化史的意味を追求しているが、19世紀前半の出版で、さまざまな職業人のありさまを克明に描いた事典風の書物『彼ら自身によって描かれたフランス人の肖像』中の「文芸人」に関する記述を紹介しているところは面白い。
……文学界の商業的側面は、どの作家においても詩的なところなどまったくない。特に、新人にとっては何の魅力もない。未知の才能には商品価値がない。というのは、知性の世界における有名人とて他の商品と何ら変わるところがないからである。広場に出れば、有名人のひとりひとりに値段が付いている。アスファルトマルセイユ石鹼に相場というものがあるように、著作家にもひとりひとりに相場があるのだ。精神の価格は、産業界の株の価格と同じように変動するのである。……(p.72)
 Ⅲ「言語の専制の彼方へ」では、ジャン・ジャック・ルソーの『ルソー、ジャン=ジャックを裁く—対話』を取りあげている。ルソーの分身としての〈ルソー〉と公論=社会的言説の運搬者である〈フランス人〉との対話を考察し、みずからの内から発する言葉と、「他者の声を反復するだけの谺」との相克を論じている。
……あなたは他人の権威によりかかって自分の意見を疑いえないものとしているけれども、あなた自身が判断の主体にならない限り、わたしたちふたりの意見を比較検討することはできないと言う〈ルソー〉に対して、〈フランス人〉は、そういうあなたは、ただひとり「みんなtout le monde」と違う見方をしているわけだけれども、「声の数の計算」というものを無視するのかと切り返している。「声の数の計算」とはなんとも奇妙な表現だが、フランス語では代議制にもとづく選挙の際の投票における意思表示のことを「声」と言う。したがって、たとえばある候補者に三万票が寄せられたという場合には「三万の声を獲得した」というふうに表現するという事実に着目するならば、ここで〈フランス人〉をとおして現象している言説には、声の多数性による正当性の確保と支配というデモクラシーとメディアをめぐる今日的な事態との思いもよらぬ符号が読み取れるようにさえ思われるのだが、どうであろうか。とはいえ、何よりも興味深いのは、このような〈フランス人〉の「近代的」な発言に対する〈ルソー〉の返答であろう。というのも、「他人の目によって見る」、「これらのかまびすしい声」、「他者の声を反復するだけの谺」といったきわめて雄弁な表現によって、テクストは、言うなれば言説のざわめき、他者の言説の果てしない反復によって満たされた社会空間を見事に表象しているように思われるからである。……(p.210)2015年5/26記