絓秀実『吉本隆明の時代』(作品社)を読む(2)

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吉本隆明中野重治の「村の家」経由で抽出した「大衆」イメージは、しばしば貧困な「下層」というバイアスをかけて語られるが、小林秀雄はもちろん、柳田國男や京都学派などのそれと同様、支配権力に従順な「中産階級」である。下層イメージのバイアスをかけることによって、やや革命への傾斜を持つように見なされる。(p.61) 

◯吉本の故郷が中野のような「村」ではなく、東京下町であったことが、彼が「エス」の実体化を相対的にしりぞけえた理由であると言える。「もはや戦後ではない」と言われた時期には、東京下町もその住民大衆の生活も、吉本のイメージしたものから相当に変貌し、空洞化していて、実体化は不可能となっていた。吉本が驚愕する前に、「水」でさえすでに商品化されていたのであった。(p.63)

◯「大衆」というエスに触れえなかった戦時非転向組の「日本的モデルニスムス」は、「非人間的」なのであり、そこにおいて、中野重治も「近代文学」派も、ともに「人間的」であるということになった。「非人間的」な敵は、共産党の非転向コミュニズムのみということになり、戦後の思想的・文学的ハイアラーキー再編成のなかで、一貫して「無垢」の立場を主張できた吉本隆明が、その頂点に君臨できたのであった。(p.66)

◯対立物を対立のままに統一しているがゆえに正統であるから、時に誤った方針を出しても、それに対立しようとする異端は「ファンタジー(錯乱の論理)」でしかないとする花田清輝に対して、吉本隆明は、硬直した正統から疎外された「異端」は「正統」を打ち倒し、自己を回復する権利を有するとの「疎外革命論」を提起している。スターリン批判が疎外革命論を、初期マルクス再評価に基づく「戦後主体性論」をも巻き込みながら巨大な潮流としていった。(pp.86~87)

廣松渉は『ドイツイデオロギー』の文献批判を通して、初期マルクスは後期マルクスによって自己批判されているとし、疎外革命論を批判したが、実践家としては武井昭夫(てるお)派であった彼が、武井経由で花田清輝の疎外革命論批判を継承したのではなかったか。(p.88)✻昔、池袋豊島振興会館会議室での某団体主催の数日間にわたる連続講義で、吉本隆明とともに、(名古屋大学を辞めて浪人中の)廣松渉の講義を聴いたことがある。その時まさに、(合同出版社版)『ドイツイデオロギー』の新しい読解について熱っぽく語っていたことが思い出される。

◯『砂川闘争において、座り込んだ学生から自然に「赤とんぼ」や「ふるさと」といった童謡が歌われ、地元民から警官隊にいたるまでの共感を呼んだというエピソードが知られている。』(pp125~126)✻吉本隆明と府立化工で同窓であった社会学者の安田三郎(わが恩師)は、『「赤とんぼ」がナショナリズムなんて社会科学的に通用しないよ』とこき下ろしていた。

◯反安保の闘争に積極的にコミットした「若い日本の会」のメンバーは、江藤淳を除いて誰一人として、安保の条文を読んでいなかったという。ブント(共産主義者同盟)=全学連幹部の西部邁も同様であった。「当初から反安保を第一の闘争課題に掲げていたブント=全学連にとって、反安保とは帝国主義として復活した日本資本主義を打倒するための戦略と戦術に過ぎない。ブントの幹部だった西部邁が安保の条文を読んでいなかったとしても、何ら怪しむに足りない。」(p.137)