大衆高圧釜社会の風景:竹内洋『大衆の幻像』(中央公論新社 2014年)を読む(再掲)

simmel20.hatenablog.com 竹内洋関西大学東京センター長の『大衆の幻像』(中央公論新社)を読む。オルテガ・イ・ガセット、西部邁氏以来の大衆社会論はすでに食傷気味といえなくもないが、竹内氏は、むしろ「いまこそ大衆社会論が必要なのではないか」とし、吉本隆明の「大衆の原像」論にも言及しつつ、1970年代以降の日本における大衆の変質を論じている。「大衆」ということばの理解としては、オルテガの「敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとする」また、「喫茶店の会話から得られた結論を実社会に強制する」ようなことを属性とするのが大衆人であるとする。70年代以前にあっては、大衆は「市井に投げ出されたままで、背伸びして自己を超えようとはしない」(清水幾太郎)即自的存在である庶民が「間歇的に社会運動などで声を上げ、賛否の運動にくわわったり、政治、経済問題に嘴をさしはさんだりするとき」になる、あくまで庶民的大衆であった。ところが、70年代に生まれた大衆は、庶民性(吉本のいう「大衆の原像」に近い大衆)はなく、大衆的大衆である。
 著者の見る大衆社会の構造転換Ⅰのもう一つは、間歇的大衆社会化から恒常的大衆社会化へ変化したことである。大衆圧力の強度が大きく、かつ及ぶ範囲が広く、恒常的となっている、大衆高圧釜社会が誕生したとしている。従来の政治、経済領域のみならず、医療から学問や藝術の世界までこの大衆圧力釜の中に入れられてしまっている。
 しかもこの大衆社会は、「実在の大衆ではなく、超大衆ともいうべき想像された大衆を御神体にした大衆御神輿ゲーム社会」である。著者は、これを大衆社会の構造転換Ⅱとしている。
……大衆御神輿ゲームによって政治家もマスコミ人もテクノクラートも、幻像としての大衆を想定しながら活動し、操作しながら囚われる。大衆世論といわれるものさえ、想像された大衆世論を予期しての意見の集合である。これは、アレクシ・ド・トクヴィルのいう「多数者の専制」とはちがう。想像された多数者からまなざされている社会である。さらに多数者の意向を想定しなければならない。御神輿ゲームの片棒も担がなければならない。大衆御神輿ゲーム社会とは、われわれを、そうせざるを得なくさせている「空気」的大衆社会なのである。……(同書p.26)
 第3章の「メディア知識人論」が、この本の議論の核心となっている。利用率としては、SNSを含むネットが優勢であっても、メディアの権威ということではテレビなのであるとし、
……大衆は実体性を喪失することで、これまで以上に猛威をふるっている。実体としてでも理念型としてでもなく、「想像された」大衆としてである。「国民のみなさん」「視聴者」「一般の方々」がこうしたテレビ大衆にほかならない。「大衆の原像」ならぬ「大衆の幻像」として、である。このテレビ大衆、つまり幻像としての大衆を想定して、言論活動や政策がなされるのがウルトラ(テレビ)大衆社会の特徴である。幻像としての大衆世論が言論や政策のための情報になり、さらに大衆世論を予期した言論や政策が大衆の幻像に還流する再帰性の循環がおこっている。
 こうした幻像としてのテレビ大衆を生産・再生産しているのが、テレビであり、その表象=代理がテレビ文化官僚である。……(同書p.103)
 このテレビ文化官僚とはテレビ文化人のことであり、「文化人」ということばには、知性や知性人に対する愛憎併存があるだろうとし、著者竹内氏は、丸山眞男の用法を用いて、このテレビ文化人を構成する主体は、芸能人化した文化人と、文化人化した芸能人であるとする。なるほど首肯できる。エコノミストなどの専門人も(テレビ)文化人化し、「ウケ狙いの極論」でメディアを賑わせていると批評している。
 戦後日本のオピニオンリーダーだった、清水幾太郎丸山眞男福田恆存吉本隆明加藤秀俊らの思索・発言を大衆対知識人の問題をめぐって吟味しているところも示唆されること多い。こちらが高校生のころ読んだ、清水幾太郎の『社会学入門』(光文社カッパブックス)の最後の文章が紹介されているが、そこは同じく感動したところであった。また、著者が京都大学院生の時代周囲では吉本隆明が教祖化されて読まれていて、集まった仲間の下宿先で、「吉本もいいけど、福田恆存はもっといいぞ」と喋ったことなど回想しているところも、吉本隆明以前に高校時代から福田恆存の愛読者であったこちらとしては、上の年代のしかも学者研究者(京都大学名誉教授)である著者に失礼であろうが、共感を覚えたのである。▼(2014年9/18記)