先日文芸誌『雲』(龍書房)の藤蔭道子編集長から掌篇小説を書いて送るよう命じられて、まだ約束を果たしていない。題名だけは決まっているが、さてまとまるかどうか、といった体たらくである。
この月刊『雲』では、森晴雄氏が、川端康成の『掌の小説』について、精力的に論じている。3月号現在で、166回目の論考を載せている。なにか着想をひそかに盗めないかと、『掌の小説』をひさしぶりに目次から気ままに選んで読んでいる。
野山嘉正放送大学教授編『詩(うた)う作家たち』(至文堂)収録の、片山倫太郎鶴見大学教授『川端康成「掌の小説」における「詩」の問題』で、川端康成が短い小説を書いてきた「私一個の理由」(昭和4年・『文藝春秋』)を紹介している。(1)自分の欠点のうちに生きるために。(2)体の虚弱な小説家の自分には、最も適した小説形式であるがゆゑに。短時間に出来上がり、苦痛を伴はず、創作の快感に終始す。(3)純粋であるがゆゑに。小説は短い形式ほど詩に近し。(4)日記および見聞録として。心に浮ぶこと、見聞きすること、それを随筆に書きつけた古人のように、小説の形に移して書きつける。片山倫太郎氏は、「詩」が「純粋」の語に置き換えられている点に注意を促しつつ、「純粋」あるいは「詩」であることの基準が形式上の長短にあるのではなく、「むしろ主観性の問題にあったと見て取ることができる」としている。そして川端康成にとっての『掌の小説』は、「主観が主知的に現はれた短篇小説」として自覚されているとのことである。素材を同じく創られた「南方の火」と『掌の小説』の「日向」とを比較対照して、「孤児の悲哀」の「感傷と自意識の処理を課題として背負う若き日の川端にとって、掌の小説の方法は内容の面でも、また、形式上の短さの点からも全体を俯瞰しやすい、したがって客観性を獲得しやすい方法として見いだされたのであり、その客観性を土台として一つの明確な方向性をもった観念が提示されてゆくことになるのである」と述べている。
たまたま恵贈にあずかった同人誌『風の道』第5号(東京荒川区南千住)で、『輪舞』 (審美社)の文藝評論家澤田繁晴氏が「二人の名人」という評論を載せていて、室生犀星の「香炉を盗む」と、川端康成の『掌の小説』の「心中」を比較して論じている。相変わらず犀利な批評で面白い。川端康成の「心中」における「愛のかなしさ」は、〈個人の哀しさ〉を超越して、〈人間存在の哀しさ〉にまで至り着いているとし、
……犀星が「言語表現の妖魔」であるとするなら、川端は「作品内容・筋書の妖魔」と言えるように思う。
犀星の頭に去来する「心中」は、男女の愛に起因するもの以外は取り敢えず意味しないのであろうが、川端の考える「心中」は、ここでは「無理心中」をも含めて、人間存在に対する認識の根底をも揺さぶりかねない広範囲なものに及んでいる、と思う。二作品に甲乙を付ける気は毛頭ないのはもちろんであるが。……
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町に咲く、上ハナミズキ、下西洋石楠花(ロードデンドロン=Rhododendron)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆