プルカレーテの『オイディプス(OIDIP)』観劇




 昨日10/24(金)は、東京池袋の東京芸術劇場プレイハウスで、ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場来日公演、シルヴィウ・プルカレーテ(Silviu Purcărete)演出の『オイディプス(OIDIP)』を観劇した。プルカレーテ演出の同劇団の舞台を観るのは、『ルル』以来2度目である。期待に違わず面白かった。『ルル』で主演のオフェリア・ポピィ(Ofelia Popii )が、王妃イオカステとその娘アンティゴネーの二役を演じていて、オイディプスを包み込む王妃の妖艶さと、落魄の父をいたわる娘のひたむきさを表現し、引き込まれてしまう。この女優について、プルカレーテおよびルーマニア演劇全般に詳しい演劇評論家の、七字英輔氏は、「プルカレーテが構成・演出した舞台の全貌を、万遍なく観ることができた」2011年ルーマニア観劇紀行の記「カラジアーレ競演とオフェリア・ポピィ」で、述べている。

……オフェリア・ポピィはここでも雌のケンタウロスなど様々な役を演じる。この他、『ファウスト』でメフィストを演じたことは言うに及ばず、一時間半に及ぶ自らの一人芝居、リア・バグナー作・演出『断片(スライス)』も、ラドゥ・スタンカ劇場で上演した。一〇代の少女から妙齢の女性、老人までの女性六役を入れ替わり立ち替わり演じる。その千変万化が実に見事だ。この作品で、彼女は今年度のルーマニア演劇連盟の最優秀主演女優賞を受賞している。まさに規格外の女優であり、演劇祭においても年々その存在感を増している。……⦅『ルーマニア演劇に魅せられて』(せりか書房)p.166 ⦆
 さてこの『オイディプス』の舞台は、ソフォクレスの『オイディプス』と『コロノスのオイディプス』の二つの作品を一つに構成して成立している。はじめは、聖地とされるコロノスの岩場の場面。盲の老人オイディプスに、住民(コロス)たちが罵声を浴びせ、立ち去るよう勧告する。オイディプスは、自らの不幸と災難を告白し、滞在を許してくれるよう懇願する。舞台は暗転、『オイデイプス』の不幸と罪業の顛末が展開する。映画の回想シーンのような展開でありながら、演劇である、あくまでも現在進行形として物語は進行する。人物が登場するとき、動く歩道に乗って舞台の上下を移動する。能の橋掛かりを思わせる。神話的空間がそこに出現するのである。
 オイディプスがひょっとして自分こそが先王ライオスを殺害した犯人ではあるまいか、との猜疑の念に苦悶しはじめると、王妃イオカステは、王のズボンのチャックを開けて抱き寄せる。この二人の退っ引きならない関係を衝撃的な演出で表わしてみせた。みごとである。
 すべてが明らかになって『オイディプス』の大団円の直後、ふたたびコロノスの地が舞台になる。突然ダンボール紙を張り合わせたような奥の壁が壊れ、背後に大きな森の映像が緑鮮やかに映し出され、庭園に大きなテーブルが置かれていて、タキシードの男たちと、シースルーのドレスからはたわわな乳房が露見している女たちがワインを呑んで乱痴気騒ぎをしている。この舞台の瞬時の転換には、目を見張った。素晴らしい。アテナイテセウスやテーバイに攻め入ろうとして、父オイディプスの助力を願いに訪れる息子ポリュネイケスらも登場するが、市民らの狂騒の印象が強い。都市のビル群が倒壊していく映像が背後のスクリーンに映し出され、己を弁えず繁栄と幸福に酔っている限りいつか没落は免れないかもしれないとの、メッセージが伝わってくる仕掛け。ヒュブリス(傲慢)への戒めという、ギリシア悲劇のテーマが現代的装いのなかに継承されているのであった。
 なおルーマニア語の台詞は、舞台上のスクリーンに英語と日本語の翻訳が出るが、余裕がある瞬時の時間は英語の訳も読み取れる限りで読んでみた。これがけっこう楽しかった。印象に残ったのは、「 out of mercy 」ということばであった。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20130301/1362128247(「ラドゥ・スタンカ劇場の『ルル』観劇:2013年3/1」)
【参考:蜷川幸雄演出『オイディプス王』】

◆6/10日(金)夜は、蜷川幸雄演出・ソフォクレス作の『オイディプス王』を渋谷シアターコクーンで観劇。蜷川氏の演出になる同作品では、かつてギリシアの女優を招いての築地本願寺境内での公演を観ているが、これはまったく異なる演出である。コロスたちに雅楽の笙をもたせている。明らかに、これまで以上に東洋的あるいは日本的なる表現との融合を試みている。プログラムによれば、クレオン役の吉田鋼太郎に、「雄弁術の国の芝居」との意識で演じるよう指示したそうであるから、一方で情緒に流れないようぎりぎりの努力をしている。対話性と様式美との緊張関係を保つことに成功した舞台といえた。オイディプス野村萬斎、イオカステは麻実れい、ティレシアスは壌晴彦。音楽担当は東儀秀樹
 喜志哲雄氏も述べているように、当時の観客はみな、オイディプス王の悲劇の筋立ては知っていたのだ。「ソポクレースが想定していたのは、拡散された視点をもった観客、主人公と一体になりながらも主人公と距離をおいて眺めもする観客」(岩波『ギリシア悲劇全集第3巻』月報2)ということだ。オイディプスの視点にも、ティレシアスの視点にも、クレオンの視点にも身を置いて共感したり、反発したりしなければ深くは味わえない舞台であろう。今回「あなたこそアポロンの告げるライオスの殺害者なのだ」という決めつけの台詞にやはり衝撃を受けながらも、アポロンに仕える予言者ティレシアスの苦悩に共感するところが大きかったのは、こちらもギリシア悲劇の観客として成熟してきたのであろうか。
 『オイディプス王』の10年前の作品である『アンティゴネー』では、第一スタシモンでコロスたちが歌う「不可思議なるものあまたある中に、/人間にまさって不可思議なるものたえてなし」に始まる歌のなかで、「まこと、人間は、事に接して窮することもなく、/不治の病より身をかわす術すら/よく案ずるにいたりぬ。/案じ得ざるは、ただひとつ、/死を逃れる道ならん」とあるのが、ソフォクレスの人間および人生の根本的認識であろう。
 故斎藤忍随氏によれば(『アポローン岩波書店)、この「不思議なる」と訳されるギリシア語の「ディノス(deinos)」には「巧みなる」とか「恐るべき」「強力なる」という意味が含まれているそうである。恐るべき強力なる人間は、しかし自分の幸、不幸を決定する力がなく、時に禍いを回避できないのである。このような人間および人生の不条理性をさらに絶望的に突きつけたのが『オイディプス王』であるという。
……スフィンクスの謎を解くとは自然の秘奥を探り、その秘密を暴露することであり、そういう大それたことができる者は反自然的な行動の主でなければならぬ。異常な知の持主オイディプースが、自分の父の殺害者にして自分の母の夫であるのは当然である。…… 
 このオイディプスの絶望と没落をもたらしたのは、「舞台に一度も登場はしない」アポローンの神である。陰のもう一人の主役なのである。Kittoのギリシア悲劇研究によれば、イオカステは香をたいてアポロンに祈るのだが、真実をいち早く察知し、奥へかけ入って縊死してしまう。
 彼女が救い求めてたいた香の煙りが立ち登っていたはずで、観客は空しい香煙の中に、彼女の祈りの空しさを感じとったばかりか、人の哀れな祈りを受けつけぬ神アポローンの非情さに気がついたに違いないのである。(斎藤忍随『アポローン岩波書店
 川島重成国際基督教大学名誉教授は、公演プログラムのなかで、述べている。
……アポロンの光と闇の中に人間を発見していくこと、さらに宇宙の真理を証していくという意味において、『オイディプス王』はまさに宗教的なものを孕んでいるといえよう。……
 僧衣のような暗い朱色の衣をまとったコロスの一団は、マイケル・カコヤニス監督の映画『エレクトラ』の黒衣の女性たちを思い起こさせたが、集団で唱える日本語の台詞に少しわかりにくいところがあった。対決する無常感が最後は、笙の音とともに東洋的な無常感に収斂していった舞台ではあった。間違いなく、夏のギリシアで絶賛されるはずである。座席は、2階B列24番のS席。舞台全体が前2列目で鳥瞰できて最高であった。(2004年6/13記)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20110625/1308979444(『「戦慄」あっての合理的精神』)