現代思想から逆算してヘーゲル読解(その1)

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 仲正昌樹金沢大学教授の『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)は、現代哲学・思想の系譜にどうヘーゲル哲学が蘇生しているかを、「いくつかのアクチュアルなトピックに即して」解明かつ解説していて、原典をきちんと読んでいないこちらのような読者にもわかりやすく、しかも刺激的である。第二章から、ヘーゲルの知られた主╱僕の対立関係を中心にして考察が展開されるが、ここでは欲望論には頁を割いていない。
 面白かったのは、プラグマティズムの潮流にある思索・理論におけるヘーゲル哲学との交錯、そして、ソフォクレス作のギリシア悲劇アンティゴネー』をめぐる、法規範についてのヘーゲル批判の二つである。

 ヘーゲルの人倫(Sittlichkeit)とは、相互承認によってお互いの安全を保障しようとして形成された道徳的共同体のことであるが、周知のごとく三つの段階があるとしている。1:「愛」という形で感情的にも結び付いている「家族」の段階。2:財産所有者同士の交換によって成り立つ「市民社会」の段階。相互承認し合う人々を結び付ける媒体は「法」である。3:国家の情動的啓蒙によって、公共的生活に積極的に参加する主体として人々が統合され、その媒体は、狭い意味の「人倫」=人々の共同体的規範へのコミットメントである。

 さてフランクフルト学派第三世代のアクセル・ホーネットは、プラグマティズムの系譜に属するアメリカの社会心理学者G.H.ミードの自我の発達論を、(初期の)ヘーゲルの議論に近いものとして評価しているとのことである。

 共同体の中での役割として与えられている〈me〉に対する、個人としての私の無意識的・情動的なリアクションを、ミードは〈I〉と呼ぶ。〈I〉が、社会から与えられる〈me〉に対して不満な時に、葛藤が生じる。〈i〉と〈me〉の不一致は強い緊張を強いるが、反面、それが契機となって、私個人が自発的に社会的に責任を持つことができる主体として成長していく契機が生まれ、かつ、メンバー間での問題解決のためのコミュニケーションを促し、社会がより高度に組織化していくことに繋がっていく。

 ヘーゲルの人倫の発展論を、社会的行為論・役割論という形で機能主義的に読み替え、脱形而上学化した点でホーネットはミードを評価する。ミードの場合も、三つの承認の形式が想定されているとしたうえで、ミードの議論を踏まえながら第三の形式を市民相互の 「連帯Solidarität」として捉え直し、三つの形式それぞれにおける、現代に通じる現実的な問題の諸相を描き出している。(pp.173~174)

 

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