SPACの『アンティゴネ( ANTIGONE)』は観たいけれども

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 SPAC公演、宮城聡演出の『アンティゴネ』は今春最も観たい演劇なのであるが、静岡の駿府城公園での夜間野外劇場公演となると、交通上日帰りが難しく、しかも東京は緊急事態宣言下にあるので躊躇してしまう。この演出家がかつて主宰していた演劇カンパニー、ク・ナウカ公演の『アンティゴネ』を、2004年10月夜東京上野の国立博物館前庭で観劇している。なおその翌年には、宮城聡演出のク・ナウカの『メデア』が美加理主演で国立博物館講堂で上演され、美加理ファンなのでむろんこれも観ている。

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 SPACの野外劇『アンティゴネ』はもっと大がかりなものらしい。とうぜんながら同じく迷っている演劇愛好家が多いようで、サッカーJリーグに例えれば、天王山の名古屋グランパス川崎フロンターレの試合にも相当する演劇公演なのに、直前でもけっこう前の方の指定席に空席があるので驚きである。
アンティゴネ』は、2003年3月ギリシャ国立劇場来日公演(ニケティ・コンドゥーリ演出)を、東京国際フォーラムホールCで観劇している。その観劇記をかつてのHPから再掲したい。

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▼3月14日(金)、ソフォクレス作『アンティゴネ』を観劇。ギリシャ国立劇場の訪日公演である。演出は前回公演の『メディア』と同じ、ニケティ・コンドゥーリ。音楽が、タキス・ファラジス。アンティゴネリディア・コニオルドゥ、クレオンをソフォクリス・ペッパスが演じている。主役はこの二人と見てよいだろう。西洋古典学者の川島重成氏も、「この悲劇のドラマとしての展開の動因となっているものは、クレオンとアンティゴネという二人の主役の激突である」としている。(『ギリシャ悲劇の人間理解』新地書房所収「『アンティゴネ』における死と愛」)

 オイディプスの二人の息子たちが相争い、双方ともに戦死してしまう。弟エテオクレスは国を護って倒れたのでそれにふさわしく埋葬し、兄ポリュネイケスは祖国に刃を向けて戦死したのであるから、亡骸を放置し、禽獣の餌食とすべしというのが、支配者クレオンの決定であり、命令であった。この命令に逆らって二人の妹のアンティゴネは、見張りの立つ場所に忍び込み、放置された兄の遺骸に土をかけた。埋葬を象徴する行為である。命令違反は死罪、これがクレオンの最初の掟であった。プロロゴスで、妹イスメネ(演じているマリア・カツィアダキは、こちらの好きな劇、ロルカの『ドニャ・ロシータ』のヒロインを演じているそうだ)に決意を語っていた。反逆を駆動させたものは、アンティゴネの「愛」であろうが、イスメネのこの世的な「家族愛」を越えたものが、アンティゴネの「シュン・ピレイン(愛する)」であると、川島氏は捉えている。
クレオンの「ピロス」はその名詞形で、「身内」「友人」の意で、これが、政治的、軍事的なコンテキストでは「味方」の意味になる。
 この「ピロス」の多義性が詩人によってアンティゴネクレオンのやりとりのなかで見事に駆使されている。すなわち、身内への愛を拒否してまで、敵—味方の区別に固執するクレオンの政治的信条に対して、アンティゴネは「シュン・ピレイン」によって、家族の絆の冒し難きを表白したと理解されるのである。『アンティゴネ』における「ピロス」の用例に多少とも注意を向けるならば、これは容易に納得できる見解であろう。われわれもこの解釈に従うのにやぶさかではない。この語(「シュン・ピレイン」)のこの箇所における意味は、確かに家族愛であろう。』
 だから表層的には、祖国愛と家族愛との対立、あるいは国家法と家族法との対立、さらに実定法と自然法との対立という、ヘーゲル以来お馴染みの図式があてはまることはあてはまるのだ。パンフレットでは、久保正彰東大名誉教授が次のように解説している。
「個人と個人とをつないでいる家族の深い絆が断ち切られるとき、その傷は、家全体の死滅にもつながる。—『アンティゴネ』終幕のメッセージは、いわゆる“家族”という小生命単位に限られるものではなく、大小さまざまの家族の集合体にもあてはまる。地域社会でも、都市社会でも、極端なときには、国家間の社会においてもあてはまる一つの真実である。」

 感動的ではあるが、現代のヒューマニズムに引き寄せた解説であろう。
『ポリュネイケスの屍は彼女にとって死そのものの象徴であった、と言えるのである。かくして、アンティゴネの愛は、自己の外なる生の領域に対象を持ついわゆるヒューマニズムの愛のカテゴリーにはとうてい納まらない愛であり、それゆえ、「死の愛」とでも表象するしかないものなのである。これは自殺願望ということではない。確かに彼女の言動は、他者の眼には、「わざわざ死を求める愚か」つまり自殺願望と映るしかないであろう。しかし「死の愛」はそのような人間性の弱さの証ではなく、死という否定の契機を自らに引き受け包摂することによって、かえってそれを人間肯定の機縁へと転換せしめるもの、人間性の真の自由の謂なのである。』(川島重成氏前掲論文)
 コロスの歌う第1スタシオン(合唱歌)は、「驚くべきものは数多あれど、人に勝る驚きはなし」。この「驚くべき」と訳される語は、「恐ろしき」とも「不思議なる」とも、あるいは「巧みなる」とも、さらには「素晴らしき」とも訳しうるそうだ。この多義性こそ、人間存在そのものであることは、現代文明のあり方を考えれば首肯できよう。クレオンのヒュブリス(傲慢)は、アメリカの傲慢であるかもしれないし、現代文明の驕りかもしれない。
 生命あるものの死も正義も必ず実現する「運命」への愛こそが、多分アンティゴネの「死の愛」なのではないだろうか。それを知りうる人間が、盲たる予言者テイレシアス(演じるコズマス・フォンドゥーキスが、XJapanのYOSHIKIを思わせる格好で登場したので驚いた)であるというのは象徴的であろう。われわれはあらゆるものを見させられて、実は、「見えないもの」がいよいよ見えなくなってしまっているのではないか。(ソフォクリス・ペッパス=クレオンとリディア・コニオルドゥ=アンティゴネの写真は、日本文化財団編集・発行の「訪日公演記念プログラム」より)
 なお、会場の「東京国際フォーラムCホール」は、席と席との間隔がゆったりしていてとてもよい条件で観劇できる。こちらの坐った席は、8列の34であった。最高の位置といってもよい。(2003年3/16記)

 周知のように、ギリシア悲劇アンティゴネ』は哲学史的にも大いに論議の対象となってきた作品である。あらためて考察したいところだが。

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