偶然のエピクロス主義者ーモンテーニュ:中金聡『〈城壁のない都市〉の政治哲学』(晃洋書房)その6

 ミシェル・ド・モンテーニュ(1533〜1592)の『エセー(随想)』は、『世界の大思想5』(松波信三郎訳、河出書房新社 1974年)でかなり熱心に読んだ。ただしこのシリーズの上巻のみで、下巻が見つからない。とりあえずかつての上巻の読書を踏まえて、中金聡『〈城壁のない都市〉の政治哲学』(晃洋書房)第2部−1「偶然のエピクロス主義者ーモンテーニュ」をまとめることにする。
『エセー』では、キケロプルタルコスディオゲネス・ラエルティオス、セネカなどからの(出どころを明かさない場合もある)引用が多く、体系的にモンテーニュ自身の思索が展開・構築されているわけではない。意図的に哲学史・思想史を試みているのでもない。

 わたしの考え方は自然のもので、これをつくりあげるのにいかなる学説の力も借りなかった。だが、きわめて無力なものではあるが、わたしがこれを述べたいと思ったとき、そしていくらか品よく皆のまえに発表するためにこれに理論と実例で支えをかませるべきであると考えたとき、これが偶然にも、あまりに多くの哲学上の理論と実例に一致しているのを発見して、自分でも大いに驚いた。わたしには、自分の生活規則がどの規則にもとづくものであるかは、それが実際に行使され、適用されてからでなければわからなかった。╱まさに新型の人間、はからずしてなった偶然の哲学者である!(pp.170〜171)
 
『エセー(Essais)』は、1580年〜88年の執筆で完成した著作で、追加(引用の挿入)、増補(ボルドー本)されているのである。この著作以前にモンテーニュルクレティウスの『事物の本性について』を読んでいたことが立証されている。
 モンテーニュエピクロス主義者であったのか、二つの説が提出されている。1)エピクロ主義への傾斜を最晩年の一時期に限定するP.ヴィレーの説、2)終生変わらぬエピクロス主義者とするA.アルマンゴーの説の二つである。ヴィレー説だと、『エセー』の初期諸章がストア派の影響下にあり、1588年版において「カトリック教会・古典古代・慣習など時代の先入観から逐次解放されて」エピクロス主義に傾斜、「ルネサンスそのもの」の発展と軌を一にして、思考が変化・深化したと説く。しかしアルマンゴー説が指摘するように、初期影響を受けたとされるストア派に関して、引用されたセネカ箴言はもともとはエピクロスからの引用であり、モンテーニュが好んだキケロプルタルコスの文章にはエピクロス哲学への多くの暗黙の論及が含まれているのである。したがっていわば共時的モンテーニュの思想的立場を考察するアルマンゴー説のほうが正しいのだろう。しかしモンテーニュは、エピクロスルクレティウスの自然哲学には無関心(の立場)であり、原子論的唯物論を採用していない(エピクロス主義における唯物論倫理学との結びつきについては正確に理解していたと推定できる)。あくまでもカトリック教徒として生きカトリック教徒として生涯を終えたのであった。
 モンテーニュは「来世における幸福な永遠の生命を得るという唯一の目的のためには、現世の幸福と快楽を捨てることなどなんでもない」とアウグスティヌス主義の立場を表明しながら、「その舌の根も渇かぬうちに」貪欲な快楽主義を鮮明にするのである。カトリックユグノーの対立を契機に勃発したフランスの内乱はサン・バルテルミーの大虐殺などを経て、王位継承問題を巻き込みながら宗教と社会生活とが再融合する状況を出現させつつあった。そういう状況の中での『エセー』の論述である。モンテーニュは自分は「少数者のために」書いていると明言(1588年版)していて、ルクレティウスの「あなたのように賢いひとは、わずかの足跡をみるだけで十分で、あとはひとりでにわかるだろう」のことばを引用している。「賢いひと」なら自分の本心を見抜いてくれるだろう、とのサインか。
 1570年ボルドー高等法院評定官の職を売って、エピクロスの「隠れて生きよ」の箴言通りに隠棲の生活を送っていたが、1581年ボルドー市長に選出され再選を経て1585年までその要職にあった。どうしたのか?

「第一の自然」ー希釈されないラディカルな自然ー(❉慣習などが「第二の自然」)を奉じるがゆえに、政治のもたらす快楽にみずから身をゆだねることはないかれら哲学者とて、偶運によって公務にたずさわらねばならないことはあるだろう。そのときかれらが「自分から自分を奪わないで、自分を他人にあたえる」には、社会の法と公職への侮蔑を世間から隠すことが必要なのだ。こうして、かつて断罪された「仮面」が、いまや「公的な役割と私的な実存との境界線」として劇的に復権する。(p.202)