ジャン・ジュネ作、石川大輔演出『女中たち(Les Bonnes)

(左から、円地晶子、黒河内りく、石川大輔、月船さらら

 この芝居のあらすじ紹介は次のサイトが、簡にして要を得る。

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ハムレット』や『かもめ』などの劇中劇ではなく、みずからの存在感を掴み直すための相互演技、演じることを演じる舞台。演技とは何かという一つの演技論的あるいは社会学的問題。「奥様」と女中たちという主人対奴隷のヘーゲル以来の哲学的問題。二つの(考えをめぐらせるべき)問題がこの小劇場(シアターブラッツ)を後にしても残ったままであった。女優3人(月船さらら・黒河内りく・円地晶子)だけの舞台なので、老人性難聴の感音難聴で高音が聴き取りにくく、つまり女優のせりふが完全には聴き分けられないこちらには、すんなりとは入りにくい展開であった。2列目の席を確保してあったから、全体としては理解でき面白くはあった。演出は、CEDARの石川大輔。帰りに売り場でCEDARの3月すみだパークシアター倉での公演、三島由紀夫作『わが友ヒットラー』のDVDを購入した。
 渡辺守章訳の原作本は岩波文庫の中古があるが、高価で今秋の競馬の大不振で買えない。演技論の社会学(相互行為論)としては、E.ゴッフマンの『行為と演技』(誠信書房)を所蔵していても、探して見つからず読めない。西洋比較演劇研究会編『西洋演劇論アンソロジー』(月曜社)にジャン・ジュネの演劇論(藤井慎太郎訳)も収録されている。

▼劇(drame)とはすなわち、その上演=再現の瞬間における演劇という行為のことだが、この演劇という行為はでたらめなものではあり得ないが、でたらめなもののうちに自らの口実を見出すことはできる。実際、目に見えようと見えまいと、あらゆる出来事は、ほかから切り離されていれば、つまり、内容において断片化されていれば、うまく導かれれば、演劇という行為の口実として役に立つこと、あるいは演劇という行為の出発点や到着点となることも可能であると私には思われる。あらゆる出来事は、どんなかたちであれ、私たちによって生きられた出来事、煽られたときにしか消えることのない炎によって引き起こされた火傷を感じる出来事のことである。
 政治、気晴らし、道徳といったものは、私たちの関心事においては何の関係もない、もし、私たちの意に反して、こうしたものが演劇の行為の中に入り込んできたとしたら、あらゆる痕跡が消え去るまで追い払うことだ、これらは映画、テレビ、漫画、写実小説の材料としうる岩滓である—そうだ、こういう古くなった車体のための墓地がある。(pp.441〜442)
▼演劇のことを深く気にかけたことはなかったものの、重要なことは、非常に多数の観客が利益を受けられる(?)ように上演の回数を増やすことではなく試行—稽古=反復と名づけられた—が、きわめて大きな強度を持つただ一度の上演、そして、その上演が観客の一人一人のうちに燃え立たせるものによって、そこに参加しなかったものを照らし出し、その内側に混乱を引き起こすに足りるほど、輝かしい地位へと到達するようにすることである。(pp.442〜443)

 2007年10/24 東京江東区ベニサン・ピットで上演されたヤスミナ・レザ作、天願大介演出の『スペインの芝居』では、女優についてインタビュー回答をするヌリアを演じる女優を演じたのが、深紅の衣装で官能的であった月船さらら、15年の歳月を経て、二人の女中の「奥様ごっこ」に割って入って登場、黒の衣装で存在感を示した。今度は演じ合うことを壊す奥様の役を演じたのであった。

 シアターブラッツにはすぐ辿り着けなかった。厚生年金会館のあったところ斜め向かいにあるとは。昔厚生年金会館ホールへは、(J.コルトレーンとの繋がりで)インドのシタール奏者ラヴィ・シャンカールなどのコンサートを聴きに通ったものである。