批評同人誌『大失敗』創刊号に、絓(すが)秀実氏の特別寄稿「柳田国男と戦後民主主義」が掲載されている。短いがインパクト十分の批評である。
「天皇主権」の大日本帝国憲法から「日本国憲法」への〈改正〉については、丸山眞男や宮澤俊義による「八月(1945年8月)革命説」が憲法学主流の見解となっている。絓氏は、とくに宮澤俊義が、主権の転換にともなう「王殺し」を、いかにして合理的に説明しているのかについて、その論理の整合性を追求する。
二つの学説の影響を指摘している。一つは、ハンス・ケルゼンの法理論、なかんずくその著作『民主主義の本質と価値』の説であり、もう一つは、柳田國男の「祖先崇拝」としての天皇制イデオロギーである、としている。国民の「一億総懺悔」とは、フロイトの「王殺し」の後の、「殺した者たちが抱く悔恨」であり、天皇は「人間宣言」をしている。『にもかかわらず「象徴」としての天皇制が存続し続けるということは、それがトーテムとしてあるということであり、その後にも生き続ける生身の天皇は、トーテムを祀る神主になったわけである』。ケルゼンはフロイトのゼミナールに出席していて、「トーテムとタブー」や「集団心理学と自我の分析」などの論文に接していて、フロイトも留保をつけながらも「自説を踏まえたケルゼンの論には肯定的であった」ということである。ケルゼニアンであった宮澤俊義の「八月革命説」に、フロイト=ケルゼンの影響を考えることができるわけである。
もう一つの、柳田によって提出された「祖先崇拝」としての天皇制イデオロギーは、天皇をトーテムとして再構築することだった、と主張している。「トーテムとタブー」の依拠しているJ.フレイザーの著作に耽溺していた柳田は、そこにおける「王殺し」の問題についても深く拘泥していたとのことである。彼の「祖先崇拝」とはトーテミズムを意味し、「つまり宮沢俊義的な八月革命説の神学的な裏付けが、柳田によってなされたのだ」。
柳田の「常民」の学としての民俗学は、戦後から今日に至るまでその捉え方に変遷、毀誉褒貶があったが、それらはその時代時代の思潮にあわせて解釈されてきたものであり、いま「柳田の再評価に大きく貢献した六八年世代(以降)が、戦後民主主義に回帰し、天皇主義者としての相貌をあらわしていることの底流なのである」。慌てて未読の『民主主義の本質と価値』(岩波文庫)をAmazon経由で購入申し込んだ。
赤井浩太氏の「宮台真司の夢ー私小説作家から天皇主義者へ」は、社会システム論を「隠れ蓑」にした、じつは〈私小説作家〉であった宮台真司教授がいかにして天皇主義者に〈転向〉したのかを、扇動的に批評している。対象の個別性について外せば、次のところに注目したい
2019年現在のぼくたちは、反米主義のいきおいで天皇主義へと転んだ何人かのリベラル知識人を知っている。その動機や経緯は様々であるにしても、反米主義=反グローバル主義を掲げる者たちが、「天皇」を拠りどころにしてしまうというこうした事実は、「天皇制が、日本人の政治的想像力を束縛する」という大江健三郎のテーゼを思い出させる。
この点で宮台真司は早かった。すべてが交換可能になる近代化によって「歴史意識」が日本人から失われることをイヤイヤするシンジくんだからこそ早々にコケた。(p.60)
天皇主義者として宮台真司教授が「君側の奸」=〈アベ〉をこき下ろすと、左翼老人が拍手喝采する、という捩れた構図には呆れるほかはない。
— ミスター (@hahaha8201) 2020年1月7日
小野まき子氏の「煙草と図鑑ーブレヒト『ゼチュアンの善人』について」がいちばん読みたい論考であるのだが、『セチュアンの善人(Der gute Mensch von Sezuan)』を含めて過去観劇したブレヒト作品のプログラムを探し、態勢を整えてから読みたいと考えている。