森本あんり『反知性主義』(新潮選書)を読む(その2 )


第六章:マサチューセッツ州の貧しい煉瓦職人の家に生まれたドワイト・ムーディ(1837~1899)の教会は、その後全世界で見られるようになる「独立系」教会のはしりとなった。……キリスト教というウィルスは、自然発生するということはない。教会に集まる者には、それぞれ過去にどこかで別の教会との「感染経路」がある。それが多くて太ければ、その教会の本部と連絡を取り、その教派を名乗ることになるが、そういう人が少なければ、「独立系」と呼ばれることになる。……(p.189)
 リバイバルは、普通ではあり得ないような理想的なビジネスモデルを提供するので、ビジネスとは相性がいい。☞リバイバルという現象は何度でも繰り返す。「一度の回心で誰もが聖人になってしまったら、この商売は行き詰まってしまうだろう。しかしリバイバルは、いわば同じ客に同じ商品を何度でも売ることができる」から、成長ビジネスとなるのである。ムーディ考案の「決心者カード」は、クリスチャンとして生きる決心を表明するカードで、希望の教会を記入させた。リバイバルを支持しないカトリックの教会を記入しても問題とせず、町にリバイバル集会がやって来て突然カトリック教会へ入会希望者が押し寄せたりもした。☞アメリカのキリスト教が神学や教理といった、原理的な違いで切り分けられているわけではないことがわかる。
 集会で「芝居」とともに大衆を楽しませた音楽担当の、ゴスペル歌手アイラー・サンキー(1840~1908)の賛美歌集は、販売もされ、一種の「お土産」のように扱われることもあった。リバイバリズムが反知性主義の「種を植え付け」、ビジネス的な実用主義がそれを「最先端まで押し進めた」といえる。
第七章:アイオワ州の貧しい開拓農家に生まれたビリー・サンデー(1862~1935)は、プロ野球選手を経て伝道者となり、最終的には、大富豪と肩を並べて歩き、ホワイトハウスで大統領と食事を共にする人物となった。☞知性が世襲的な特権階級だけの独占的な所有物になることに反発し、誰でもが平等なスタートラインに立てるということが、反知性主義の原点にある。
……知性の支配に対する反逆は、この平等という理念を原動力としていることがわかる。このような反知性主義は、単に知的なことがらや知的な人びとへの反発を意味しない。それは、大家のもつ旧来の知や権威への反逆であって、その反逆により新たな知の可能性を拓く力ともなる。反知性主義は、知性の発展にも重要な役割を果たすのである。……(p.237)
 サンデーにとって「信仰とはすなわち道徳的な正しさであり、世俗的な成功をもたらすもの」であるから、「もし自分が世俗的に成功しているならば、それは神の祝福を得ていることの徴」なのである。しかしサンデーは内心に癒しがたい空洞を抱えていたのであり、そうであればこそ止めどなく「承認欲求」を求めたといえるのである。それがこの時代のアメリカの特徴である。
エピローグ:反知性主義は、知性と権力の固定的な結びつきに対する反感である。ハーバード・イェール・プリンストンに対する反感ではなく、「ハーバード主義・イェール主義・プリンストン主義」への反感なのである。/昨今、アジアやラテンアメリカを含む世界各地でリバイバルという宗教現象が起きているが、メッセージの内容、礼拝の光景、音楽のスタイル、参加者の着ている服に至るまで、アメリカ的キリスト教の刻印を帯びていて、マクドナルドやスターバックスなどと同様、アメリカの主要な輸出品の一つとなっている。
 著者は、「あとがき」で反知性主義とは、「きわめてアメリカ的」なものだとの、教育社会学竹内洋氏の指摘を紹介しつつ、国内学歴秩序の「さらに上」を狙ってハーバード入学を目指すような「見当外れの権威志向が一般の人びとばかりでなく政府にも大学にもメディアにも蔓延しているうちは、日本に真性の反知性主義が開花することは難しいだろう」と述べている。
 
 ほとんど反知性主義とは相関しないだろうが、ギャル男風の現代思想研究者千葉雅也立命館大学准教授の「アンチ・エビデンス論」をめぐるネットでの論議は、愉快であった。
 http://10plus1.jp/monthly/2015/04/index03.php(「千葉雅也:アンチ・エビデンス論」)

 https://note.mu/shinkai35/n/n37779516e099⦅「しんかい37(山川賢一):千葉雅也のアンチ・エビデンス論について(最終版)」⦆