二人の演出家—宮城聡とピーター・ブルック

(『東京新聞』10/11夕刊「大波小波」)
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benisuzu:歌舞伎座マハーバーラタ戦記」構想に時間かけただけあって仕上がり最高。いつも3階6000円の席で見るんだけど、あまりにも豪華な大作に満足すぎて「いつもと同じ代金でいいんでしょうか」という気持ちに。これひと月しかやらないのもったいない…(10/10 )歌舞伎座「芸術祭十月大歌舞伎」極付印度伝 マハーバーラタ戦記
ryugo hayano:江戸時代,歌舞伎は毎回新作.今は古典レパートリー上演が主.「復活狂言」で面白いものは稀. 傾く(かぶく)新作は常に求められている. 舟橋聖一三島由紀夫は日本の古典に世界を求めたが,マハーバーラタ戦記は,その枠を破った.(10/14 )歌舞伎座『マハーバーラタ戦記』特設サイト公開|歌舞伎美人


『The Mahabharata(マハーバーラタ)』公演パンフレット
 ピーター・ブルック演出の『The Mahabharata(マハーバーラタ)』は、1988年銀座セゾン劇場で観ている。その『The Mahabharata(マハーバーラタ)』の後日譚という位置づけの、同演出『BATTLEFIELDバトルフィールド)』を2015年11/26新国立劇場・中劇場で観劇している。
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20130603/1370248538(「(旧)銀座セゾン劇場の閉館:2013年6/3 」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20151128/1448687107(「ピーター・ブルックの『BATTLEFIELDバトルフィールド)』観劇:2015年11/28 」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20131115/1384504289(「ピーター・ブルックの『ザ・スーツ』観劇:2013年11/15 」)
 今回の新作歌舞伎『マハーバーラタ戦記』(未見である)演出の宮城聡は、現在SPAC(静岡芸術劇場)の総監督の地位にあるが、演劇ファンなら周知のこと、かつては解散した劇団ク・ナウカを主宰していた。こちらは必ずしもク・ナウカの公演を熱心に観ていたとはいえないが、その出し物に魅かれるところがあったことはたしかである。かつてブログに記載した記事(2011年8/9 記)を一部再録したい。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20110921/1316594132(「静岡の劇場群はだいじょうぶか?:2011年9/21 」)
……夏の上野を歩くのは、6年ぶりか。「ク・ナウカ」の演劇『王女メディア』を2005年7月に観ている。上野の東京国立博物館での公演であった。その前年の10月には、博物館本館前庭で同カンパニーの『アンティゴネ』を観劇している。解散した「ク・ナウカ」公演は、それほど一貫して観てきたわけではなかったが、いつも入口で観客を迎えてくれた演出家の宮城聡さんの存在感とともに、大いなる印象を残している。

ク・ナウカ」公演で観劇したものは、2003年7月『サロメ』(日比谷公園草地広場)、2004年10月『アンティゴネ』(東京国立博物館本館前野外特設舞台)、2005年2月『山の巨人たち(じつは「作者を探す六人の登場人物」)』(下北沢ザ・スズナリ)、2005年8月『王女メディア』(東京国立博物館本館特別5室)、2007年2月『奥州安達原』(文化学園体育館特設舞台)。夏の上野で観た『王女メディア』がいちばん面白かった。かつてのHP記載の観劇記を再録したい。

◆7/19(月)上野国立博物館本館特別5室で観劇したク・ナウカ公演、宮城聡台本・演出の『王女メディア』は、ギリシア対アジアという対立図式を、明治近代の日本対中国・朝鮮に重ね、またそれを、男性=論理と、女性=感性および肉体性の対立図式に重ね、これを抑圧と隷属の関係として捉える考え方が基底にある芝居である。そしてドンデン返しとして、メディアの復讐劇の成就の直後虐げられていた女性たちが、隷従の着物を脱ぎ捨て真っ赤なキャミソール(?)姿で、男たちを刃にかけて息の根をとめることになる展開である。

 明治時代の歓楽街の茶屋とおぼしき座敷にて、仲居さんたちが男の客たちの要望で「王女メディア」の芝居を演じるという劇中劇の設定。ピランデルロ以来、劇中劇自体はめずらしくない演出である。ここでク・ナウカの、声と演技の役者を別にする独特の方法が生きてくる。男たちが謡か義太夫の冊子でも読むようにして台詞を語り、女性たちは、メディア役の美加理さんをはじめとして身体の演技をする。座敷の向こうで打楽器が時に応じて激しく演奏される。美加理さんは、韓国の巫女の身なりで、日常的動作と、神が憑依したらしい振る舞いとを、羽織った着物を着たり脱いだりの違いで演じ分けた。演出家は、述べている。

シャーマニズムが民衆的支持を受けつづけている韓国に対して、そうした呪術性を完全に排除した日本人が抱くこの二つの感情―軽蔑と畏怖―は、今日もなお消えることがありません。

 このように僕らは『王女メディア』に「近代」をめぐる二つの問題を見いだしました。近代化に伴って女性的なものがはっきりと男性的なものの下位に固定されるということ。そして近代化を先に成し遂げた国が周辺の地域に対して持つ抑圧性。』

 権力への志向と論理で押え込もうとする夫イアソンを、メディアは荒れ狂う自然性である、情念を持つ肉体性で立ち向かい制圧してしまうのである。役を降りて女性たちは、男たちを斬り殺す。その前に、「近代合理主義」の象徴である、棚の書物群が崩れ落ちてくる。圧巻である。一つの秩序の崩壊を見事に表現している。ところがオチのオチが用意されていて、幕開き前から舞台の隅でだるそうに存在していた老婆が、正面に出現していて、惨劇を冷ややかな眼で眺めるが、この老婆こそ2500年も生きつづけたメディアの成れの果てであり、「近代の超克」の物語は決して完成していないのである。視線の入れ子の構造をもったこの演出は見事というほかはない。

 しかし「近代」は近代批判を孕みながら歴史的展開を遂げてきたのであって、この反〈論理〉の芝居の構造自体がきわめて論理的に設(しつら)えられた世界といわなければなるまい。思想史的にも卓抜なる思索というものではなく、1920年刊行されたL.クラーゲスの論文集『人間と大地』(うぶすな書院)の「人間と大地」の思想はその先駆といえようか。

『人類は未曾有の荒廃の狂宴の虜になっている。「文明」とは鎖を解かれた殺意という特色に染められたものであり、大地の豊饒は文明の毒気に枯れ果てる。「進歩」の果は先ずこのような姿である。』(同書・千谷七郎訳)

 演出家宮城聡が召還しようとしたガイアとは、大地に豊饒をもたらす女神のことであり、クラーゲスが「文明」に殺されたとするものと重なるであろう。(2005年7/26記)……
(CD「破壊と創造〜長い夜にはク・ナウカを」)


人間と大地

人間と大地