『群系』38号発刊


 批評中心の文藝同人誌『群系』第38号が届いた。こちらは講読会員である。特集は、「日本近代文学の始原」と「富士正晴全国同人雑誌大賞受賞について」の二つ。特集「日本近代文学の始原」ではまず、澤田繁晴氏の「私小説試論ーー日本人の臍」を読む。面白い。臍のような本来は人様にお見せするようなものではない対象を、いわば「臍曲り」に虚構に仮託して表現する小説が私小説であるとすれば、「このような貧乏たらしい作品の行列にも一つのメリットはあり、一般にはそのような実際的な効用があったからこそこれらの私小説は読まれていたのだと思う。一般人の判断を見くびるべきではない」としている。「そのような実際的な効用」については、すぐ後で触れている。
……読者が、他人のより悲惨な生活を目にすることにより、自分の生きる力の糧にするようなことも時によってはあったと思うからである。日本の私小説を、日本の赫々たる戦果と見るか、日本のおぞましい限界と見るかは各人の判断に任せることにしよう。……( p.106 )
 https://www.amazon.co.jp/私小説のすすめ-平凡社新書-小谷野-敦/product-reviews/4582854737(「レビュー:すぐれた純文学小説論」)
富士正晴全国同人雑誌大賞受賞について」は、授賞式の経過、作家で『VIKING』編集者であった富士正晴の「人と文学」の紹介、『VIKING』同人で夭逝(自殺)の作家久坂葉子のことなどが簡潔に紹介されている。久坂葉子については、昨年3月5日に金塚悦子作、川口啓史演出の『葉子』を観劇している。あらためて舞台のことを思い起こした。
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20160306/1457254335(「座・高円寺で『葉子』観劇:2016年3/6 」)

『季刊文科』第7号(1998年春季号、紀伊國屋書店発売)掲載の、久保田正文大河内昭爾&勝又浩、三氏による「鼎談・同人雑誌今昔」を読み返した。
勝又:僕の経験でいうと、同人雑誌で書いているとき、ペンの先にちらつくのは、まず仲間の顔でしたよ。それが批評で採り上げてもらうと、次に書くときはその批評家の顔がペンの先にちらつくわけですよ。仲間はもうどうでもよくなっちゃう。(笑) 
大河内:やっぱり媚びるわけじゃないにしても、ちょっと迎合するところが出てくる。評者の執筆時期に雑誌の発行を合わせるというようなケースも出てくる。
 またこの7号の特集は「富士正晴」である。奇想の作品「往生記」も収録されている。
……あるとき、「おまえも何か書け」と言われた。『VIKING』にはそのうち何か書いてみたいと思ってはいたが、笑われそうな気がしたので、「自信ありません」と答えた。すると、硬いボールがはね返ってくるように、「あほぬかせ。自信があるとかないとかは大作家の言う台詞や。おまえなんか何書いてもおもろないに決まったあるわい」と、怒鳴られた。……(黒田徹「竹薮の中の時間」 p.116 )
……第二の鉄則(※第一の鉄則・戦で決して死にはしない:第二の鉄則・女を強姦しない)は「戦時強姦」という軍法違反がほぼ兵士たちの日常と化した状況の前に凍りつくしかなかった。不寝番にあたった兵士たちは交替に現地で徴発した中国人女性を犯した。『一夜の宿』の「わたし」はその順番が来たにもかかわらず眠りこけてしまい、ふだんは労役の交替を申し出るはずのない同僚兵士によって代わられた。性欲よりも寝ることへの欲望が勝ってしまった。それで「わたし」の侵犯はやりすごされたのだ。だが、寝入る前の頭に「淫らな光景」がうごめいたことを、いまの「わたし」は隠しはしない。……(紅野謙介「戦争を記録する富士正晴」p.120)
……氏の方法は、ひとつの元になる文章、体験などを材料にして、《書き加え・横にずらし・転倒する行為》としての精神の所産である。あるいは、いわゆる「純文学」の作家たちや私小説家たちがさけて通っている素材や文体を駆使するものでもあった。それをパロディの方法といってもよい。……(立石伯『ある「聖者」の志ーー富士正晴の韜晦について』p.124 )