都知事選後バルザック再読




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長島昭久:炎天下の都知事選を、私の1000倍は頑張って闘った中妻じょうた区議による私の1000倍は説得力ある魂の鳥越氏批判。強引な党本部決定を覆せなかった私なんか批判する資格もないが、間違いなく中妻さんには批判する権利も憤怒する理由もある。(8/11)

田中秀臣:しかし鳥越氏の都知事選とそれ以後の発言は、野党共闘に痛打をくらわし、日本のリベラル・左派のダメさ加減を再認識させ、さらにマスメディアがいかにダメなジャーナリストを育てたかを示してもいて、ある意味で実に偉大なw貢献を行った。しかもきちんと都知事も落選して実害も最少。グッジョブ。(8/11)
モトケン:要するに、鳥越氏は都知事選の候補者なんかではなかったんだ。彼は、選挙という場と自分を支持してくれる人たちを利用して、自分が言いたいことを言っただけ。選挙なんかしてなかったんだから選挙結果に責任を感じないのは当然だな。まかり間違って当選しなくて本当によかった。(8/11)
菊池雅志:弱者の味方を標榜しながら弱者利権を貪り、権威主義者で学歴に弱く、何でも反対して自分のわがままを追求するが他人の自由は認めず、経済とは駄々をこねて他人の金を奪い取ることだと信じている…。終焉しようとしてるのは、安保闘争から成長も努力もしなかった“リベラルを自称する寄生虫”である。(8/13)
三浦瑠麗 Lully MIURA:鳥越氏の資質を問題にするのはネットと既存メディアの相乗効果分析をする上で意味があるが、担いだ政党自身の問題だ。問題は無党派が取れない理由を政党の戦略ではなく、個人の資質に還元し、従来型のイデオロギー対立軸による戦いをやり続けること。結果、都市の貧困対策さえ他の政党がお株を奪える。

 http://lineblog.me/yamamotoichiro/(「やまもといちろうブログ:鳥越俊太郎さんの駄目さ具合から私たちが学ぶべきこと」)

 バルザックの「政治ジャーナリスト」としての新聞記者論を思い起こさせる。かつてのわがブログの記事をあらためて記載しておく。
◆ バルザック(1799〜1850)の『ジャーナリズム性悪説』(鹿島茂訳・ちくま文庫)の最初は、「政治ジャーナリスト」としての新聞記者について論じている。「五つの変種」を分類し、「押しの強い男か、世渡り上手な男かのどちらか」である社長兼編集長兼社主兼発行人の次の変種として、テノール(冒頭社説記者)を俎上に載せている。以下は、解説記者、ジャック親方(何でも屋)、国会記者である。「劇場に大当たりをもたらすテノール」に喩えられる冒頭社説記者とは、「必ず一般紙の一面トップを飾る長い記事」の冒頭社説を書く記者のことであり、この仕事に従事する者は、「自己の精神を歪めずにいることはむずかしいし、また凡庸な人間にならずにいるのも困難である」としている。痛快である。

……細部の違いを別にすれば、冒頭社説には二種類のタイプしかない。野党型と与党型である。もちろん第三のタイプもあることはある。しかし、のちほど見るように、この型の記事はまれにしか登場しない。野党型の冒頭社説の記者は、政府が何をしようと、必ずなにか難癖をつけ、非難し、叱責し、忠告しなければならない。一方、政府側の冒頭社説の記者は、政府がどんなことをしでかそうと、必ずそれを弁護することになっている。前者は常に変わらぬ否定であり、後者は常に変わらぬ肯定である。もっとも、同じ陣営でも、新聞によって文章の色調に若干の違いがみとめられる。というのも、各陣営の間には中間党というものが存在しているからである。ところで、どちらの陣営に属する場合でも、この職に就いて何年かするうちに記者たちは精神にたこができて、ある種の決まった物の見方をするようになり、一定数の紋切型だけで食いつなぐようになる。……(同書pp.33~34)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20141009/1412827577(「バルザックの新聞記者論:2014年10/9」)