擬似イベント(pseudo-events)としての「国葬(儀)反対」

agora-web.jp

▼ダニエル・J.ブーアスティン(Daniel J. Boorstin)のメディア論の古典『幻影の時代』(星野郁美・後藤和彦訳:東京創元社)の「疑似イベント」の言葉を、改めて思い起こさせる。
……合成的な新奇な出来事(イベント)がわれわれの経験には充満しているが、私はそれを「疑似イベントpseudo-events」と呼ぶことにする。このpseudoという接頭語は、「偽物の」あるいは「人をあざむくための」という意味のギリシャ語から来たものである。……(同書pp.17~18)
……出来事を報道し、複製するこのような新しい技術が発達した結果、新聞記者は出来事の起こる以前に、起りそうなイメジ(※訳者は、ブーアスティンの用例に即してあえてイメジと訳す)を描き、報道を準備しておくという誘惑に落ち入った(※陥った)。人間はしばしば自分の技術を必需品と感違い(※勘違い)するようになった。読者や観客は、報道の自然さよりも、物語の迫真性や写真の〈本当らしさ〉を好むようになった。……(同書p.22)2014年9/13記

【追加:バルザックの新聞記者論】
バルザック(1799〜1850)の『ジャーナリズム性悪説』(鹿島茂訳・ちくま文庫)の最初は、「政治ジャーナリスト」としての新聞記者について論じている。「五つの変種」を分類し、「押しの強い男か、世渡り上手な男かのどちらか」である社長兼編集長兼社主兼発行人の次の変種として、テノール(冒頭社説記者)を俎上に載せている。以下は、解説記者、ジャック親方(何でも屋)、国会記者である。「劇場に大当たりをもたらすテノール」に喩えられる冒頭社説記者とは、「必ず一般紙の一面トップを飾る長い記事」の冒頭社説を書く記者のことであり、この仕事に従事する者は、「自己の精神を歪めずにいることはむずかしいし、また凡庸な人間にならずにいるのも困難である」としている。痛快である。
……細部の違いを別にすれば、冒頭社説には二種類のタイプしかない。野党型と与党型である。もちろん第三のタイプもあることはある。しかし、のちほど見るように、この型の記事はまれにしか登場しない。野党型の冒頭社説の記者は、政府が何をしようと、必ずなにか難癖をつけ、非難し、叱責し、忠告しなければならない。一方、政府側の冒頭社説の記者は、政府がどんなことをしでかそうと、必ずそれを弁護することになっている。前者は常に変わらぬ否定であり、後者は常に変わらぬ肯定である。もっとも、同じ陣営でも、新聞によって文章の色調に若干の違いがみとめられる。というのも、各陣営の間には中間党というものが存在しているからである。ところで、どちらの陣営に属する場合でも、この職に就いて何年かするうちに記者たちは精神にたこができて、ある種の決まった物の見方をするようになり、一定数の紋切型だけで食いつなぐようになる。……(同書pp.33~34)2014年12/9記