丸山眞男没後20年

 2014年にわがブログで、「丸山眞男生誕100年」を取りあげたが、今年は没後20年(1996年8/15没)にあたり、今日が命日である。眼についた記事を記録しておきたい。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20140826/1409039681(「丸山眞男生誕100年:2014年8/26」)
◆『現代思想』(青土社)8月臨時増刊号で、生誕100年にあたり丸山眞男を特集している。巻頭に二つのエッセイが置かれる。長谷川宏氏の「丸山眞男、その割り切れなさ」では、「丸山眞男はわたしにとって割り切れぬ存在でありつづけているが、その割り切れなさは、戦後民主主義の割り切れなさ、知なるものの割り切れなさに通じている」としている。「丸山眞男のいう自由なる主体は知的な主体とほとんど同義であり、主体的に生きることは知的に生きることとほとんど同義だった」が、いま「自由や主体性は知の外部に広がる日常の暮らしに向かって解き放たれねばならないと思われるのだった」。吉本隆明の『丸山眞男論』を思い起こさせる感懐である。
 最首悟氏の「つぎつぎになりゆくいきほひ」では、丸山眞男に「natureとしての自然」と「自然(じねん)」との「無意識の混同」があったとの指摘について、「それは丸山眞男にかぎらず私たちの問題である」と書いているところに注目したいが、全共闘の成れの果ての弁は『華厳経』などチラつかせてexplicitではない。
 https://www.buzzfeed.com/satoruishido/maruyama-masao-8-15?utm_term=.ut3RwMP6a#.dogY5Jeoy(「石戸諭:8月15日で没後20年、丸山眞男が残した言葉」)
……「自分たちの意図と違った結果が出てきた時に、意識的に、あるいは無意識的になんらかのあるわるもの、あるいは敵の陰謀のせいでこういう結果になったというふうに説明する(中略)それは、自分が政治的に未成熟であったということの告白なのです」(「政治的判断」)
丸山は政治的リアリズムを重視した。崇高な目的のために、行動する市民であっても、無責任な放言は退けるべきだと考えていたようだ。
行動しても、しばしば結果がついてこないときがある。そこで政治的リアリズムが不足しているとどうなるか。
何か悪者を作って、そのせいにする。あるいは敵の陰謀があった、敵の方が巨大だった、ずるい敵に騙された、という人もでてくると丸山はいう。……
 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301215.html⦅池田信夫丸山眞男を読みなおす(2009年3/12」)
……ちろん西欧的な主体性というのもフィクションなので、どっちがすぐれているかはわからない。「古層」論文のあと、日本的ニヒリズムポストモダンの先駆だという議論が、「日本的経営」礼賛とあいまって流行したこともある。しかし今となっては、それも思想的バブルにすぎなかった。近代的な主体性を理想化して日本を「遅れた」ものとする初期の丸山も一面的だが、日本が西欧近代に代わる思想を生み出したわけでもない。……