山田登世子さんの〈声〉




 仏文学者山田登世子さんの著作は、エッセイ集『声の銀河系』(河出書房新社・1993年10月初版)一冊しか読んでいないが、マクルーハン、オングなどに代表された時代思潮の影響を感じさせながらも、面白く読んだ記憶がある。ご冥福を祈りたい。
……視覚はひととひととを切り離すが、声は結びあわす。マクルーハンは語っていたものだ。近代の活字人間とは、視覚のみを異常に発達させて「感覚麻痺」を起こしてしまった人間なのだ、と。そうして自己を閉ざしてしまったナルキッソスの耳には、愛を呼びかけるエコーの声が届いてこない。そのエコーはナルキッソスの「無情」を癒すべく、声を響かせているのである。……(「読書する女」p.101)
……それにしても、エコーが女であり、ナルキッソスが男であるのはなんと象徴的なのだろう。声の文化とは—電話とは—威儀にたいする「くつろぎ」である。「くつろぎは視覚的な配置を棄てて、諸感覚がなにげなく参加するのを許すところに成立する」。活字文化の画一的な整然たる反復性にたいして、声の文化は一種のだらしなさと冗漫性を許容する。「電気の時代に不可避の反復冗長の形式 」。電話の話しことばは本質的に冗長であり、「とりとめのなさ」こそこのメディアの特質である。刻々とうつりゆく生きた現在はとりとめないものであるからだ。そのとりとめのなさは、いたずらを許容する。電話は「軽い」文化にフィットし、文化を軽いものにしてゆくメディアなのだ。くつろぎ、軽さ、冗長性。それらはすべて〈フェミナン〉である。威儀を正した活字文化にかわって、いまやフェミナンな親密性のメディアが人びとを結びつける。本(活字)を相手にひとは他者を「理解する」が、電話にあってひとは相手を「感じる」のだ。エコーは、ナルキッソスが失ってしまったフィーリングを回復させようとするのである。電話をとおして、地球はいまや理性ではなくフィーリングによって結ばれていく。……(「声の共同体」pp.35~36)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20150409/1428553599(「声について:2015年4/9」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20150914/1442204207(「ナルキッソスの父は河の神:2015年9/14」)